『泉』
陶器製の小便器…隠すべき恥部の露呈は衝撃である。
美しい(新品)かも知れないが、美の称賛には少々抵抗があり、被うべき秘密の所作を想起させるこの小便器(便器)を目の前に出されたら瞬時の狼狽は免れない。堂々胸に抱く人はまずいないと思う。
しかし、この便器を使用する行為なしに生活できる人は皆無であり、生存の基本、必須条件に他ならない。
確実に有用な物との関係を、あたかも関係のないように隠匿(否定)することが、社会的な礼儀であることは常識である。
美食への憧憬は限りがないが、それを消化し出すことへの重要性は秘密裏に伏せられている。
光(入)と影(出)を、同格に位置させる企画である。
観賞者に突きつけたギャップ(溝)の心的存在こそ、衝撃であり本質を衝く答えである。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
「いえいえ、だめです、なんといつたつて頭のとがつてるのがいちばんえりんです。そしてわたしがいちばんとがつてゐます。」
「いゝえ、ちがひます。まるいのがえらいのです。いちばんまるいのはわたしです。」
「大きなことだよ。大きいのがいちばんえらいんだよ。わたしがいちばん大きいからわたしがえらいんだよ。」
「さうでないよ。わたしのはうがよほど大きいと、きのふも判事さんがおつしやつたぢゃないか。」
「だめだい、そんなこと。せいの高いのだよ。せいの高いことなんだよ。」
☆等(平等)が題(テーマ)である。
代(入れ替えると)他意が諦(明らかになる)。
半(二つに分けた一方)を、字を考える講(話)である。
ところが、あなたの姿はありませんでした。フリーダひとりだけが、長椅子にすわって泣いていました。それで、フリーダのそばへ行ってやると、ふたりの思いが一致したというわけです。
☆ところが、そこ(来世)にはいませんでした。ただフリーダ(平和)だけが、罪過の組織で泣いていたのです。要するに彼女とわたしたちは同じ気持ちでした。