介護保険料も支払うようになり、立派に高齢者の仲間入りを果たしている。
高齢者の響きには、(もう人生も終盤)という微妙な寂寥感がある。だから、人を指しての高齢者呼ばわりは一般に失礼とされているらしい。なぜなら、そう言った後に「すみません」などと釈明されると(なるほど、高齢者という指摘は差別につながるのかな)と思えてくるからである。
65才で亡くなった母を思うと、現今67才のわたしが母には幻の時間を生きていることは奇跡。高所恐怖症のわたしが、灯台の頂上に立った気分で辺りを見回す気分、でも(あらっ、みんなも・・・総勢・・・)ああ、高齢者社会なのだと実感する。
(もうお婆さんだから)などと甘えていられない状況を察知せざるを得ない。
そうして鈍間のわたしが、みんなの後を付いて(まだ生きているんだ)と気づく。まだ大丈夫なんだと思うと嬉しくさえある。
高齢者の領域・・・マラソンで言えば最終コーナーに差し掛かった辺り。ここで前の走者を抜くと拍手を送られるが、あわててゴールインする必要はない。ゆっくり景色を眺め尽くして行こう。
「高齢者は光麗者」なのだと思いたい。年寄りを哀れんでもらっては困る、(いくら急いでもここまでは・・・フッ、フッ、ふふ)意味なく笑って高齢者枠を楽しんでいる。
(そこのけそこのけ、高齢者が通る)なんてことは通用しない世情、つつましくも謙虚に、皆様の後を付いて、この細道を通っていくつもり。
高齢者の響きには、(もう人生も終盤)という微妙な寂寥感がある。だから、人を指しての高齢者呼ばわりは一般に失礼とされているらしい。なぜなら、そう言った後に「すみません」などと釈明されると(なるほど、高齢者という指摘は差別につながるのかな)と思えてくるからである。
65才で亡くなった母を思うと、現今67才のわたしが母には幻の時間を生きていることは奇跡。高所恐怖症のわたしが、灯台の頂上に立った気分で辺りを見回す気分、でも(あらっ、みんなも・・・総勢・・・)ああ、高齢者社会なのだと実感する。
(もうお婆さんだから)などと甘えていられない状況を察知せざるを得ない。
そうして鈍間のわたしが、みんなの後を付いて(まだ生きているんだ)と気づく。まだ大丈夫なんだと思うと嬉しくさえある。
高齢者の領域・・・マラソンで言えば最終コーナーに差し掛かった辺り。ここで前の走者を抜くと拍手を送られるが、あわててゴールインする必要はない。ゆっくり景色を眺め尽くして行こう。
「高齢者は光麗者」なのだと思いたい。年寄りを哀れんでもらっては困る、(いくら急いでもここまでは・・・フッ、フッ、ふふ)意味なく笑って高齢者枠を楽しんでいる。
(そこのけそこのけ、高齢者が通る)なんてことは通用しない世情、つつましくも謙虚に、皆様の後を付いて、この細道を通っていくつもり。