Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

「児童虐待」という暴力とどう向き合うか-「意味」と「強度」の間で…

児童虐待という暴力とどう向き合えばよいか

「児童虐待」は今、徐々にその射程を広げており、ありとあらゆる暴力的行為が禁じられつつある。それは「加速主義的」にどんどん勢いを強めており、親のしつけそのものが否定される方向に突き進んでいる。

(*Crueltyから、Child abuseを経て、Maltreatmentへ、という流れ)

子どもへの暴力だけではない。妻(夫)への暴力も「DV防止法(配偶者虐待防止法=配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律))」で禁じられるようになり、高齢者への暴力も「高齢者虐待の防止、高齢者の養護者に対する支援等に関する法律」で禁じられるようになった。当然ながら、教師や保育士の暴力的行為も「ゼロトレランス(徹底的に認めない)」の方向で突き進んでいる(「ハラスメント」もまた、暴力根絶の文脈の中にある)。

暴力がないことは望ましい。いかなる暴力も肯定することはできない。暴力の根絶は、それ自体、間違ってはいない。特に子どもの場合、親からの暴力的行為には抵抗することができず、またそれを止めることもできず、他者にそれを話すことも難しい(子どもはそれでも親を愛している)。

だが、ますます加速するこの暴力根絶の流れに、多くの親や教師や保育士は困惑しているのまた事実である。「虐待と思われるのではないか」「しつけと称した虐待ではないのか」「ハラスメントで訴えられるのではないか」「親が怒鳴り込みにくるのではないか」「よけいなことをするのはやめよう」「ほめておけばよい」…。

たとえそうした暴力が消えたとしても、子育ても教育も、そもそも「暴力性」をもっている。お箸を使えない子どもに「お箸を使って食べるように」という指導も、それ自体暴力的である(手で食べたい子どもの否定を含む)。服を着たくない子どもに服を着せることも、身体的に強制する以上、暴力性を含んでいる。昼食時に「いただきます」「ごちそうさま」を言わせることもまた、ある意味で「暴力的」である。

人は、暴力的なものに引き寄せられる存在でもある。映画にせよ、演劇にせよ、アニメにせよ、暴力的なシーンがあって成り立っている部分が多々ある。『進撃の巨人』も『鬼滅の刃』も、暴力的で残虐的なシーンがとても多い。アンダーグラウンド(アングラ)の世界では、更に残忍な動画や映像が山のように存在する。

暴力を容認することはできない(「意味」のレベル=頭脳・社会のレベル)。しかし、人は、暴力に引き寄せられる(「強度(Intencity)」のレベル=深層心理・世界のレベル)。

虐待も同様に、意味のレベルでは、絶対に許すことはできないし、肯定することもできないし、法で禁ずることはやはり大事である。

だが、その一方で、その虐待を完全に消し去ることもおそらく無理だろう。虐待は、強度のレベルでは、ある意味で最も「人間的」でもあるからだ。(ただし、虐待を肯定しているわけではない!)

「リストカット」を考えてみると、その意味が分かるだろう。リストカットは、意味のレベルにおいては、「やってはいけない行為」であり、「命の危険にかかわること」だ(本人に即せば、「この現実の社会から離れたい」「この否定的な現実から離別したい」となる)。リストカットが社会通念的に「いけないこと」「危険なこと」だということは分かっている。それでも、リストカットを繰り返すのだ。それはなぜか。そこに、「意味」を超えた「強度」があるからだ。すなわち、「この世界の中で生きているという実感=強度」が得られるからだ。

意味と強度


意味「ライブハウスの音量は大きいから、耳によくないので、行ってはいけない」
強度「大音量の中で、暴れて叫んで、それで、なんとか自分らしく生きられている」
 
意味「酒やたばこをやめると、とても体調がよくなるし、健康にもよい」
強度「酒やたばこをたしなんでいる時が一番幸福を感じる」

意味「哲学や宗教なんて、社会で生きていく上で無価値である」(逆に「この宗教に属せば必ず幸せになれる」)
強度「哲学書を読んでいる時にこそ、最も深遠な世界を生きることができる」「聖書の深淵な世界に沈んでいたい」

意味「死のリスクが高いので、リストカットをしてはいけない」
強度「リストカットをしているときが、一番生きている実感がある・すっきりする」

意味「妻や子を殴ったり怒号したりしてはいけない」「暴力のない愛のある家庭が望ましい」
強度「殴っている時や叫んでいる時しか、自分の内面の苦しみを吐き出せない」「後になって後悔はするが、それをしている時はものすごく気持ちがいい」


意味と強度では、捉え方は異なるどころか、真逆である。

(*この区分は、宮台先生の「意味」と「強度」(『終わりなき日常を生きろ』)とは少し異なるものです。宮台先生はこういう捉え方を(後に)「誤解」と指摘していますが、あえてその「誤解」を反転させて、ここで使わせてもらいたいと思います。参考元はこちら

虐待をする親も、虐待される子どもも、近代社会においては、あってはならない(意味のレベル)。虐待の根絶は、「児童の権利」という大きな近代の物語」の一つでもある。

しかし、現実の世界では(かつてよりもますます)増えている。ここで問題となるのは、虐待を受けた子どもの虐待経験の意味づけである。「あってはならない」というレベルで考えると、被虐待経験もまた「あってはならなかったもの」であり、それはスティグマ(Stigma=烙印・傷)となる。「私は虐待を受けた」ということで、(虐待を受けた経験だけでなく)その経験をもっていることに苦しむことになる。「虐待を受ける苦しみ」と同時に「かつて虐待を受けていたが故に今のこの自分がある」ということへの責めや苦しみである。

しかし、虐待にしても、いじめにしても、暴力にしても、それを被ったから、100%必ず人生が台無しになるわけではない(もしそうであるなら、太平洋戦争時代の日本人は全員人生を台無しにしているはずである)。また、それを被っている瞬間は耐え難い苦痛であっても、それを乗り越えて、それがない人生よりもより濃厚な人生を歩むことも可能である。虐待もいじめもあってはならない。ただ、同時に、虐待やいじめの被害を受けたからといって、それで不幸になると結論付けることはあまりにも短絡的と言えるだろう。

その克服のために(傷の癒しではなく、新たな生き方の発見のために)「宗教」があり、「芸術(音楽や絵画や文学)」があり、そして「哲学」があったのだ。そこに「強度」を見い出せば、きっと実存的な変容(=被虐待経験等の克服)の糸口を見い出すのではないだろうか。

<続く>かも…

意味と強度についての分かりやすい記事はこちら

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