『みんなから可愛がられる野良猫のようにいつでも私は孤独』
久々に心から衝撃を受ける詩と出会った。この詩は、悲しい詩なのか、それとも芯のある強い詩なのか、どう考えてもよく分からない。この分からなさについて語ってみたい。
普通に読めば、この詩は切なくて、寂しくて、ものすごく暗い詩だと思うだろう。なにせ孤独である。孤独という日本語は、日常的な意味ではとても暗く、ネガティブな印象を与える言葉だ。それに「野良猫」という言葉が重なり合い、<一人ぼっちで一人きりで誰にも飼われない、愛されない野良猫のような私>、という構図が出来上がり、物悲しい詩のように感じられるはずだ。
だが、「みんなから可愛がられる」という一文が添えられることで、解釈が揺らぐのだ。みんなから可愛がられる、みんなから注目される猫、しかも、猫自体が自由の象徴のようなものであり、自由気ままで、奔放で、吟遊詩人のようなさすらいのイメージがある。だから、孤独といいつつも、それを楽しむかのような印象を、この詩から受けるのだ。しかも、飼い猫ではなく、野良猫だ。野良とは、のらりくらりという意味だ。野良は、放蕩(ほうとう)という意味だ。流浪という言葉にも通じる。ゆえに、この詩は、自由で気ままで放蕩者で流浪者の詩とも読めなくもない。とすると、すごくこの詩がかっこいい人間の詩のようにも見えてくるのだ。
けれど、それにもかかわらず、この詩全体になんともいえない寂しさが感じられる。この詩を詠んでいるのが、男性なのか、女性なのかによっても、またその作者の年齢が、20代なのか、30代なのか、40代なのかによっても違ってくる。それは読み手にもかかわってくる。20代女性がこの詩を読めば、きっと「ああ、なんて寂しい詩なんだ。みんなにちやほやされながら、誰にも愛されない、この私のように・・・」となるだろうし、また結婚や誰かとの共同生活を破棄した40代の男女が読めば、「それでいいじゃないか。人間、一人さ。孤独かもしれないが、野良猫のように、自由気ままに生きるのだ。それが私の人生なのだ」、と、強い意志を感じ取るだろう。
では、僕はこれをどう読むのか。僕自身、孤独=自由だと考える。野良猫も日々接している。僕の住んでいるところは野良猫がたくさん住んでいて、毎日のように野良猫と接している。がゆえに、野良猫にとてつもないパワーを感じる。誰にも依存しない、誰にも媚びない、誰にも頼らない、インディヴィジュアルな孤高感を感じる。がゆえに、この詩に、強い意志を感じる。
みなさまはどうお感じになるだろうか?!
PS
ちなみに作者は、北原亜紗美さんという方らしいです。