昨年から新たに始まった【教員免許状更新講習】。
僕は、教員養成校の教員として、講習の講師としていくつかのコマを担当している。つまりは、この更新講習の当事者であるわけだ。
この免許状の更新制度は、「教職生活の全体を通じた教員の資質能力の総合的な向上」を目ざす試みで、自民党時代につくられた。民主党政権になって、この更新制度はなくなるとか、なくならないとか議論されているけど、とりあえず、今年は存続していて、そのまま続いている。
今年で二度目。講習を受ける方も探り探りだろうけど、こちらも探り探りだ。何をどうしたらよいのか。制度的にはGOが出たけど、それを引き受ける方としては、結構狼狽している。現場の先生を相手に(しかも、僕よりずっと年上のベテランの先生方を相手に)、何をどう教えればいいのか。とりあえずのお題はあるけど、それとて、多義的で、抽象的で、難しい。それを数時間で教えるっていっても…
ただ、更新講習そのものは、かなりユニークで、面白い。
幼稚園、小学校、中学校の先生方が一斉に集まって、お互いに学び合う。個々、それぞれの領域ではいろんな研修なんかもあるんだろうけど、それぞれの領域を超えて、学校・幼稚園の先生がみんなで集まって、勉強し合うっていうのは、見ていて、かなり壮大だし、色んな意見を聴くことができる。
しかも、世代、性別、地域、それぞれ全部違うわけで、各教員が置かれている状況もかなり違う。でも、その中で、やはり悩んでいることや、苦しんでいることはやはり共通している部分もあって、つながれそうな感じもする。
ただ、これは教育学に特徴的なことだと思うんだけど、大学の先生と現場の先生の間にはかなりの温度差があって、考え方や見方において、かなりのズレがある。「理論的には~だけど、実践的には~である」という、理論VS実践のズレもあるし、また、医学みたいに、実践者=研究者というわけでもない。少なからず、現場の先生方には、理論家に対する嫌悪、蔑視、抵抗みたいなのがある。(それは、弁護士が法律学者から学ぶのを嫌悪するのに似ている)
今回の更新講習では、そういうのがすごくはっきりと浮かび上がってきた。こちらが理論的なこと(特に最近の学問的状況)を説明しても、「そんなのは、現場では通用しない」、と反論されるのだ。もちろん、その反論は正論なわけで、かなりの説得力をもつ。でも、その反論そのものの中に、現在の教育現場の課題や問題があるわけで、それは一度「現場的な目線」から距離をとらなければ、見えてこない課題や問題だったりもする。
更新講習の僕的な意味づけとしては、このように、「現場」にどっぷりと浸かっている先生方に、少しの間、「学問界」の動きに身を置いてもらい、少し離れた視点から、現在の教育の問題を考えてもらう、ということになってきそうだ。「テオリア(観照)」すると言ってもいいかもしれない。教育の世界は、子どもや親との距離が近い分、なかなか日々の実践の中で距離をとることができない(本当に色んな問題が日々生じている)。だからこそ、こういう講習の中で、少し距離を置いて、今抱えている問題の根源は何なのか、それを考えてもらいたいのだ。
この講習の目的は、「教員が自信と誇りを持って教壇に立ち、社会の尊敬と信頼を得ること」にある。それには、僕も強く同意するし、僕でできることがあるなら、是非力になりたいと思う。教員のレベルを上げることは、教育のレベルを上げることになるし、間接的ではあるが、子どものためになることだ。だから、僕は、講習の最後で、「僕にできることは、現場の先生に『頑張れ!』とエールを送ることです。教育や教師がダメになったら、困るのは親であり、子どもであり、社会です。学校の先生だからできること、学校の先生じゃなきゃできないことはたくさんあるんです」と言った。
僕の視点から言えば、今の親は、「親」であるまえに、「消費者」になってしまっている。親は子どもの幸せを考える以前に、子どもの「成功」や「成果」や「勝利」を願っている。こうした成功や成果や勝利は、資本主義的な概念であり、生産-消費モデルの典型となっている。親が「親の声」を取り戻すためにも、まずは教師が、消費者になり下がっている親を、「親」としてよみがえらせなければならない。親自身が、「私は、子どもの『親』なのだ」ということに気づくよう、働きかけなければならない。
消費者の声ではなく、
親の声を。
父の声を。
母の声を。
多分、それが、『最新の知識技能』なんだと僕は思う。消費者、顧客に陥っている親や子どもを、生活世界を生きるひとつの主体である「親」や「子ども」にする、そういう視点が世界的に求められているんだと思う。
現場の先生でもない、ただの若輩研究者の僕だけど、それでもひとりの研究者、学者として、現場の先生に伝えたいのは、「今、この社会で親や子どもが頼れるのは、やはり教師なのだ」、ということだ。只今、製作中の本の趣旨と重なるが、学校がダメになったら、子どもはどうすればいい? 教師がつぶれたら、誰が子どもをみる? 批判するのは自由だけど、なくなったら、ますます格差が広がるだろうし、ますます不透明で恐ろしい社会になるんじゃないだろうか。
そのためにも、やはりまずは、一人ひとりの教師がそのことを重く受けとめて、責任ある主体になってもらいたい。これまでは、「教師」というだけで、尊敬された。けれど、今の時代では、「先生である」だけで、尊敬されることはない。尊敬される先生はいるだろうけど、ただ「先生である」というだけで、尊敬されることはないのだ。
何を知っていたら、何ができたら、尊敬されるのか。それは、一概に言えるものではない。教師は、医者や料理人やスポーツ選手とは違い、仕事の結果だけで評価されるものではない。治療がうまい、料理がうまい、プレイがうまい、それだけで評価されることはないのだ。親や教師との生の関係性のなかでの日々のやりとりのなかで、じわりじわりと分かってもらえるようなものなのだ。
だから、教育学は難しいし、また魅力的なんだと思う。
それに気づいてもらえたかといえば、自信はない。先生たちがどう感じたのか、何を学んだのか。それは、こちらには分かりようもない。でも、二年間、この講習を行って、僕の中での意味づけはできた気がする。
…ま、この制度がいつまで続くか分からないけれど、でも、僕はもっとやりたいなって思います。この声が世の中に届くことはないだろうけど、実際にたくさんの先生たちと学び合って、僕はたくさんの可能性を感じました。制度をつくるのも、壊すのも簡単なものです。でも、実際にやっている身としては、もう少しやらせてもらいたいと思っています。あともう数年したら、もっともっとまともな講習になると思います(苦笑)。
現場の先生に、本や論文じゃなくて、こういう形で支援できるっていうのも、「あり」なんじゃないんでしょうかね。
<PS>
補足ですが、この講習、実際のところ、めちゃめちゃ大変なんです。これ。でも、この制度を僕は肯定します。前期のテストの期間にぶち当たってるし、学生の実習や就職のことでもバタバタしてるし、論文を書く時期ともぶつかっているし、「学者」、「研究者」としてはほとんどなんのメリットもないんです。おまけに、講習を受けた先生方から評価されて少し落ち込むわ、テストの採点もしなきゃならないわ、、、ただでも、今の大学界はがんじがらめにされているのに、さらにこういう講習があると、パニック状態に陥ります。けれど、それでも、この講習には、大きな社会的意義があると思います。そこのところを、これを読んでくれた人に理解してもらえたら、とても嬉しいです。