今年、ドイツで見つけた本をちらほら読んでは訳している。
まさに「こんな本がほしかった!」というような本なのだ。
それが『教育学的愛』という本で、
教育と愛の問題をかなり深い次元で捉えようとしている。
その一節をご紹介!
これは主に大学教育の中の愛の問題を述べている。
大学~大学院で教育愛をたくさん受けてきた僕としては、
かなり共感できる内容だったので。。。
みなさんはどう感じるのでしょう??
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エロス:官能的、欲求的な愛
問題点;「エロスと教授[Lehre;大学教育]の両者を分けることはできない」。北アメリカの文化哲学者のジョージ・スタイナー(1929~)の強調点であり、芸術、文学、宗教、哲学といったわれわれの知識全体が、そしてとりわけプラトン以前からハイデッガー以後にいたるまでのわれわれの文化そのものが生まれる基となるのが、師弟関係(Meister-Schüler)である。ソクラテスとプラトンの関係、イエスとその使徒たちの関係、ティコ・ブラーエとヨハネス・ケプラーの関係、あるいはエドムント・フッサールとマルティン・ハイデッガーの関係は、カリスマ的で魅惑的であって、同時に問題があり誘惑的な師弟関係を示すごく僅かな例である。こうした師弟関係は、愛のある忠誠、実直な信頼、鮮烈な友情といった根源的な魅惑の後に、背信や誹謗という結果に終わってしまうことが多い。
ジョージ・スタインが続けていうには、「師に気に入られたい、≪師の愛あるまなざしをなんとか得たい≫」という願望は、「あらゆるゼミやチュートリウム(チューター補講授業)の時のみならず、シンポジウムの時や正餐会の時にも確かに見られる」。しかし、もし教授と学習が、他者には表現不可能な人間の精神のセクシュアリティーに影響されていて、このセクシュアリティーが理解や構想力を官能的に呼び寄せている(erotisieren)ならば、教育的教授関係や教育的学習関係は、必然的に、間接的に、あるいは少なくとも遠まわし的な「愛の領域(Sphäre der Liebe)」を示していることだろう。
しかし、完全に明らかにこのテーマは扱いにくいテーマである。性急に何か性的なものを教育学の背後で推測することも、また性的喚起(Sexualisierung)の問題でエロスを連想することもしないで、教育学の内でエロスの次元を見出すのは極めて困難である。エロスと性欲には密接な親和性があり、両者とも二人の反目し合う兄弟のように矛盾していないにもかかわらず、それでもそれらは-これがわれわれの(教育学的エロスの分析にとって決定的であるのだが-同じものではない。エロスの意味は、-少なくとも教育学的観点では-簡潔に言うと、「もし人がエロスを性欲の領域だけに閉じ込めるならば、それは、エロス的なものの「制限」と同じものになってしまうだろう」、ということである。同様にまた、エロティシズムをエロスの官能的な次元と同一視してはならない。両者の単純化(同視化)は、エロスの根源的な意味概念を萎縮させ、退化させる結果をもたらすだろう。もしわれわれがエロスの意味について語るならば、いったい愛のどの次元を想定しなければならないのだろうか?
概念:ソクラテスやプラトンのいうエロスは、西洋の思考や感性に浸透している。また、ただ単に愛に関する西洋哲学のみならず、ヨーロッパ文学や造形芸術にも影響を与えている。教育学の歴史の中では、例えばルネッサンスやニューヒューマニズムやいわゆる「新教育」の中では、常に、教育学的なエロスを復権させ、教育理論の反省の要素としてそれを正当化しようとする試みがなされており、プラトンを引き合いに出して、いつでもそれは一定の成果を治めてきた。したがって、プラトンのエロスの考えを「饗宴」に基づいていくらか明らかにする必要があるだろう。そうすることで、今以上更にその[エロスと教育学の]諸可能性や諸限界に関する教育学的-体系的な考察を行うことができるだろう。
神話の言い伝えでは、アフロディーテ(アフロディテー)の誕生日にポロス(機転と豊富の化身)とペニア(不足と貧困の受肉)によって産み落とされたのがエロスであり、エロスは、認識を導く中心的な力であり、人間の精神が善きものや美しいものや真なるものを求めるために働く力である。
悲劇詩人アガトーンの祝勝会に際して、-出席者の意見によるとなおざりにされていた-最古の強大な神エロスが熱烈な賞賛を受けた。(だが)最終的には、この賞賛は、ソクラテスの語りと彼の対話の相手に対する批判の重圧の下でなし崩しになってしまった。
パイドロスによると、エロスは、人間に最高のものを与え、「生と死における徳と幸福の所有」(Ⅰ80b)をもたらすものである。パウザニアス(ギリシャ古代歴史家)は、一般のエロスと神のエロスとのコントラストを明確にし、そして、友愛と共同体の根拠を精神の美とすることで(Ⅰ82d-Ⅰ86a)、神的-教育的な力の背景となるペデラスティー(パイデラスティア;少年愛)を、正当化しようと試みた。エリュクシマコス(医者)にとって、エロスは、人間的な事柄から神の事柄に至るまですべての事柄に及んでいるものであり、質的に普遍的で支配的な自然の摂理なのであった。アリストファネスの神話学的な説明によると、エロスは、人間が失った二番目の性[他方の性]を求める人間の憧れを意味している。両性人[アンドロギュノス]としての人間は、神への不遜ゆえに、ゼウスの罰として二つにさせられた。そしてその結果、人は今や他の半分[異性]を求め、それを欲するのである。「したがって、互いに対する愛ははるか昔から人間にとって天賦のものであり、それゆえに、根源的な自然を回復しようとし、二つを一つにしようとし、人間の自然(本性)を癒そうとするのである」、そして、先述した質的な「全体を得ようとすることが愛と言うのである」(Ⅰ89c-Ⅰ93a)。アガトーンに従うと、エロスは、あらゆる神々の中で一番若い神であり、「最も美しくて、最良である」(Ⅰ95a)。エロスの優しくて優雅で安らぎに満ち徳のある態度が、思慮深く、「欲求と欲望」(Ⅰ96c)を抑えるのである。生きとし生けるものを生み、作り上げるエロスの創造的な力は、「美への愛に」由来しており、また「神々と人々におけるあらゆるよきもの」に由来している(Ⅰ197a)。
この上述したすべての語りがエロスのもろもろの美や力や善(Wohltaten)をその作用の仕方に応じて主題化し、「言葉の美(Ⅰ98b)」を執り行い、それを非常に熱狂的な仕方や方法で述べているが、その一方で、ソクラテスはエロスの特性を包含する「真理」を浮き彫りにしたかった。それゆえに、彼の語りは、ソフィスト的・雄弁論的にこのテーマを扱うところから、哲学的にこのテーマを扱う方向へと移行するようになっている。ソクラテスは、彼独自の語りをもっていたわけではなく、女祭司ディオティマから聞いた言葉を伝えたのであった。プラトンは自分の対話篇の中で女性に直接語らせてはいないので-女性は根本的に哲学の饗宴から締め出されていた-、戯曲的な手法でうまく表現したのだった。女教授マイスターのディオティマは、哲学とはエロスであり、そしていわば認識を求める苦行であり、「不死の美を求めることによる理念の観想」である、と述べるときに、プラトンの言葉を語ったのである。
エロスは美しくも善くもない。むしろ、エロスは、美しいものや善いものへの愛によって際立つのである。他のあらゆる欲求と同じように、愛も欠如(Mangel)から生じており、常に愛は何かへの愛を意味しているので、そのことからソクラテスは、要求である愛はそれ自体美しいものではありえないし、善きものも美の本質の中で示されるので、エロスは善くもありえない、と推論した。エロスとは、アガトーンが言うように、神々の最も美しきものではない。むしろ、ディオティマの知見によれば、賢い神と知りえない人間との間、現象(仮象)と理想の間、思惟と知、感覚的なものと精神的なものの間を仲介する作用をもつ「偉大な悪霊(デーモンor超自然力)」なのである。
愛されている人間の心には、知恵(賢さ)、思慮深さ、正義(公正さ)、幸福が作られているので、エロスは、すべての人間の学習や陶冶の過程と密接に関連する。すなわち、「美における生成と誕生」(206e)、あるいは善のイデアへの上昇に関連するのだ。エロティックな上昇運動は、「これは愛されるものに接して欲求されるもの、他者に接して示されるものである」という認識によって、欲求する身体的な感覚性(Sinnlichkeit)を廃れさせるのである。むしろ、心的な美は愛される。つまり、エロスが心の中にある美しいものへと、又美しい行為や法的秩序へと上昇すると、肉体的な美が精神的な美を必死に求めるのである。知恵(賢さ)を愛しながら学問に取り組むことを促し、美それ自体の現れ(展示;Schau)へと流れ込む“感覚的なもの”がどんどん精神化されていく中で、エロスの発生(Werden)と、それに伴って推し進められる愛の事物化(客観化)が示される。明らかに、「饗宴」におけるこのエロスの上昇の段階は、洞窟の比喩における無知の洞窟からのよじ登り(Emporklimmen)の段階と類似しており、それと共に、意義のある教育学的な重要性の一つを示している。エロスは、単に一つの構成要素ではない。むしろ、エロスはパイデイアの保証人そのものであり、それゆえに、それぞれすべての教育課程(Bildungsprogramm)の本質的な一契機であるに違いない。
教育学の明証性:ジョージ・スタイナーが示そうとしたように、すべての教師と生徒の関係は、或る種の精神的な生殖(Zeugung)によって生まれており、エロスの力で養われている。その対話的な出会いは、「エロスによって盛りたてられる。それによって、あてどない空談の代わりに、豊かな言葉(Wort)と豊かな応答語(Ant-wort)が互いに振動し合い、互いを成長させる」のである。哲学的には上昇へと輝き、同時に下降するケア[育て]へと純化し、教育的な責任の下で示される身体的な欲求に関するジンテーゼ[総合]を示す先述のエロスの概念は、スタイナーによれば、既に前-道徳的な領域を離れており、固有なもろもろの特徴をもっているのである。
しかしながら、この[教師と生徒との]愛情関係においては、個人の主体的な事柄を貶める傾向が共に見られる場合が多い。グレゴリー・ブラストスが極めてはっきりと示したように、エロスは、個人には、もっと言えば、個人そのものために愛されるべきだが、美の普遍的理想に反して低く評価される個人にはそもそも向いてはいない。こうしたイデオロギー批判的な指摘は、幻滅させつつも、有意義である。教育学の議論に対して高く設定された愛の抽象レベルは、-それにもかかわらず愛は非常に制限された経験的な理解可能性に基づいて常に引き出されねばならない-様々な問題を提起する。プラトンは、決して愛の個別化を支持しているわけではない。彼の場合、個人は、せいぜい理想的な完全性の一つのコピーに過ぎず、善を個人が具現するために愛されるのである。ブラストスは、自身の論文の中で、批判的に以下のことを検討している。すなわち、どの程度までエロスの愛は「個人個人の抽象化された遊びの様式」に妥当するのか、そして、それゆえに、そのエロスの愛はどの程度まで個人の徳の高いもろもろの性質に向けられているのか、そして、本当にその愛は、この一人の個人(eine Person)としての個々の人々に向けられていないのか、ということを検討している。
続く