Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

直接性・間接性・匿名性

少し教育学内部の話を。

教育学的伝統のなかには、「直接的接触」を志向する傾向がある。教師と生徒との直接的かかわり、出会い、交流、対話…、そういった直接的接触を志向し、また、それが教育学の根拠となっていることが多い。教育学内部の人間(各学校の先生や教育学者)は、あらゆる教育学的現象を、「直接的接触」という「落としどころ」をめがけて記述する傾向が強い。先生と生徒、生徒同士、教師と親、どんな関係でもよいが、結論として「直接的接触」が大事だ、ということで落ち着く話ばかりである。

そんな直接性への志向に注意を促しているのが、今井康雄(呼び捨てにはできないので)先生だ。

今井先生の文章は一筋縄ではいかないので、齋藤直子(これまた呼び捨てにできないので)先生の解説を引用しておこう。

今井は、『メディアの教育学』において「直接的接触の欲望」が、大人の「意図的行為」によるコントロールによって子どもに対する「全面的な受容性の強制」をもたらす根源であることを指摘し、この暴力性を回避するためには、教育が「間接性のメカニズム」としてのメディアを導入することが必要であると主張する(『変貌する教育学』、pp.77-78)

今井先生自身の言葉で言えば、「困ったときには子どもへの直接的接触を拠り所にするという教育学伝来の問題解決パターン」(同上、p.7)の反省こそが、まずもって必要だ、ということになる。

この直接性→間接性、ないしは、直接性+間接性という構図は、僕自身の一つのフレームになっている。学校教育を語る時、教師と生徒との直接的コミュニケーションの大切さを言いたくなる気持ちと、その直接的コミュニケーションの気持ち悪さみたいなものを感じる気持ちが同時に生まれる。金八先生を見た時のほほえましさと気持ち悪さ、といえばよいだろうか。むしろ、生徒を対象化して、生徒の心に(あえて)寄り添おうとしない先生に魅力を感じるのも、この「直接性→間接性」という図式故だと思う。(『愛しあってるかい』というドラマに出てくる日色一平先生がこれにあたる)

僕自身、学生との間の距離感を大事にしているし、また直接的接触の怖さも実感している。逆に、こうやってネットを介して(誰だか分からない学生との)接触も楽しんでいる。どれだけの学生がこのブログを読んでいるか分からないけど、そういう「分からなさ」も、また新たな意味での教育学的効果だとも言えなくもない。mixiでも、積極的に学生をマイミクにしている(権力関係があるので、決して自分からマイミク申請はしないけど)。mixiでの学生との接触は、まさにメディアを介した間接的接触とも言えなくもない。でも、その効果(?)はかなりのもので、面白い何かが言えそうな気がする。伝えようという意図があるようでないような日々の記述を学生が読んで、それに何かを感じて、何かを学ぶ。そういうメディアを介した接触の意義というのは決して無視できないような気がするのだ。

そこに、僕の視点を加えるなら、「匿名的接触」ということになるだろうか。誰に向けて書いているか分からないこの文章を読んで、それが偶発的・無意図的に誰かの目にとまり、何かを感じ、そこから何かを学ぶ、そういう匿名の接触もまた、教育学的意味があるのではないか。学校内部であると、どうしても「誰なのか」ということが常に問題となる。直接的であれ、間接的であれ、目ざされているのは、「その子ども」である。僕の中のリアリティーとしては、教師の発言は、どこの誰に届くか分からない言葉を、どこの誰か分からない生徒(子ども)が無意図的に受け取り、それを受け取ったと自覚しないまま、(教師の意図とは無関係に)自らのものとなっていく、という感じがしてならない。

親密圏と公共圏の狭間に揺れる学校空間は、実在の人間であるようで、実は匿名の存在であるような人間同士の意図的かつ無意図的、必然的かつ偶発的な交流の場所なのではないか、と思うのだ。すごく抽象的に言っているけれども、極めてシンプルなことで、学校内部では、それほど皆実名的に接触し合っているわけではなく、あらゆる偶然の重なり合いを通じて、匿名的に接触し合っているのではないか、と、そう思うのだ。

僕自身、教師だけど、教師である自分は、それほど素直に自分を出しているわけではなく、作っている部分が多い。怒るのも、叱るのも、笑うのも、語るのも、全部パフォーマンスだったりする。学生も、素の自分をそのまま出していることは稀で、学校が望むように(ないしは自ら望まないように)ふるまうことの方が圧倒的なのではないか。つまり、誰でもない誰か(X)として、皆存在しているのではないか。そして、Xとして学んでいるのではないか。

まとまりのない文だけど、僕の教育学では、どうも「匿名性」が重要になってきているような気がしてきた。赤ちゃんポストの研究にも通じることだと思う。匿名は、普通あまりよくないように捉えられるし、信憑性がないということで非難されるけど、匿名ゆえにこそ守られることも多々ある。

実名性と匿名性というフレームから、学校教育、ないしは教育学を反省することはできるだろうか。できないだろうか。自分の今後の課題になりそうだ。(了)

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