今日は土曜日。
ラーメンを食べた後、とある公園に立ち寄った。
ぼーっとしていたら、そこに3歳の女の子がやってきた。大人しくて、上品そうな女の子だった。その子と少し遊んでいたら、そこに小学2年生の男の子と女の子がやってきた。どちらも、「元気」という言葉がぴったりな子で、人懐っこい子たちだった。男の子の方は、なかなかやんちゃな子で、女の子がそばに立っていたら、「そこ、どけよ。跳べねーだろ。どけ」、と言っていた。
「みて! 僕ね、跳び箱できるんだよ」
そう言って、象の形のした遊具を跳んで見せてくれた。その後、「片手でも跳べるんだよ」と言って、片手で跳んで見せてくれた。僕は、「おお! 凄いね~」と言って、少し大袈裟に驚いてみた。
子どもはいつでも、誰かに見ていてもらいたい。だから、「ちゃんと見てるよ」ということを伝えようと思い、過度に驚いてみせた。
そうしたら、気を良くした男の子は、すぐに僕になついてきた。彼らにとって「なつく」ということは、同時に「攻撃の始まり」でもあった。彼は、すぐに僕にちょっかいを出すようになった。背中を叩いてきた。小学2年生なので、痛くはない。「痛くねーなー」と、僕はにやりと笑って、その子を見た。そうしたら、少し悔しかったのか、僕のお尻を蹴ってきた。
それを見た女の子も真似をして、僕を叩くようになってきた。後ろから二人にドカドカと叩かれた。まー、僕にはマッサージ程度だったので、笑って、わざと逃げ回った。「わー、やられる~♪」とかいって。
その二人は、ますますエスカレートする。その間に、小学3年の子と4年の子が加担する。僕の後ろにみんながまとわりつく。この時にはもう時既に遅しで、後ろからみんな、僕を叩いてくる。僕は、逃げ回る。その姿は、もはや「ハーメルンの笛吹き男」状態。
あまりにも強く叩くものだから、小学2年の女の子を捕まえて、「こら、痛いだろ~」といって、ぐるぐると回すと、周りの男の子たちが、「うわー、変態、デブが怒った~」といって、ケタケタと笑う。「誘拐犯だ~」などと言う子もいた。
「俺、絶対に小学校の先生なんてなりたくない。俺はロックンローラーなんだぞ~」なんて叫びながら、逃げ回る。けれど、どんどん攻撃の手を強めていく。
こりゃたまらん、と、男の子たちを捕まえては、「くすぐりの刑」に処するも、全然効果なし。さらに、ますます彼らの攻撃は増していく。
挙句の果てには、小学4年の男の子が、木製のバッドをもちだしてきて、「これで叩いてもいい?」と聞いてくる。「おいおい…」(汗) 普通の大人なら、「やめなさい」と言うんだろうけど、僕は、「おう、やれるもんならやってみろ」と言い出す(苦笑)。
ちょっとひるんだ4年生の男の子はさすがに叩いてはこなかった。が、小2の女の子は違った。「いいの? やっていいの?」と突っ込んでくる。
そして、僕のお尻と太ももに向かって、その木製バッドを振りおろしてきた。「バコッ」、、、
「痛え~~~~」
その女の子は、ニコニコとしている。これにはもう我慢できぬ、と、「こら、それは絶対にしてはいけない。バッドは人を叩くもんじゃない!」と、かなりキツく怒った。彼女の顔が曇った。泣きはしなかった。その後、「手で僕を叩く分にはいい。素手なら。でもな、バッドはダメだ。どんな場合でも、どんなケースでも、それはダメ。分かった?」、と諭すように言うと、「うん」とやや元気のない声でささやくように答えた。
「よし」
もう、これ以上、彼らに叩かれるのは御免だ、と、「帰るね」、というと、みんな、「もう帰っちゃうの?」、「また来てね~」、と言ってくれた。
僕が怒った子には、「もう、バッドはダメだよ。でも、また遊ぼうね」、と言ったら、少し笑って、「うん」と言ってくれた。
***
この事例は、色々と考えることができるかな、と思った。
①いじめって、こういう感じで、エスカレートしていくんだろうな、と。最初は、楽しく遊んでいるだけだった。でも、それをそのままにしておくと、どんどんその遊びがエスカレートしていく。僕は大人だし、身体も大きいし、いざとなれば、怒ればいい。けれど、子ども同士だとそうはいかない。今日見ているだけでも、何度も、「おい、てめー、どけよ」とかいうセリフを聞いた。「言い合い」をしているうちはいいけど、それがもう少し大きくなれば、「強い子」と「弱い子」がはっきりと分かってくる。弱い子が泣き寝入りしたら、もう攻撃の手は弱まることはないだろうな、と。中学生のいじめになると、完全に「権力関係」が固定化される。強い子は、どんどん攻撃をエスカレートさせていく。それが、いじめなんだろうな、と。では、そういうエスカレーションに対して、誰がどう関与したらよいのか。
②僕は、子どもたちの攻撃性を否定しなかった。受け入れた。殴られるだけ殴られた(痛くはちっともない)。けれど、それを受け入れれば、どんどんエスカレートしていき、最後には木製バッドになってしまった。わずか数十分の間に。。。 で、その女の子を捕まえて、抱き抱えると、「変態」「誘拐犯」と叫ばれる。最後には、結局僕は、怒ってしまった。もちろんその後すぐにフォローは入れたけど、事実としては怒ってしまった。言い方も結構きつかった。それじゃ、普通の大人と変わりない。「単に怒ること」を拒否する「新教育」は、「ダメと言わない教育」。だけど、結局は「ダメ」と言ってしまった。でも、「ダメ」と言わなければ、さらにエスカレートしていたことだろう。
③通常、公園とかで、こういう経験をする人はそうそういないだろう。色んな大人がいるが、ここまで子どもたちの「攻撃性」を引き出すことはできるんだ、と分かった。子どもたちは、殴ったり、叩いたり、蹴ったりすることが大好きのようだ。本当に嬉しそうに、僕を叩いて、蹴っていた。でも、きっと、そういうことができる大人は、そんなに多くはないだろう。大人はすぐに怒る。「蹴っていいよ」なんていう大人はほぼいない。僕が子どもたちに、「蹴っていいよ」というと、「え、いいの?」というような顔を一瞬見せていた。子どもたちは、子どもたちで、攻撃性を抑制して生きているんだな、とも思った。
この中でも、やはり僕としては②が興味深いかな。
エレン・ケイならどうしたんだろう? あるいはハイジのおじいちゃんならどうしただろう? きっとモンテッソーリもこんな目には遭っていないだろう。でも、きっと世の中の小学校の先生は、こういう子どもたちからの攻撃を受けては、それをどう対処しようと悩んでいるに違いない。
僕としては、「バッドで人を殴ることは絶対にどんな場合にも許されない」、という論理だけは保持しようと、そこで怒ることにした。そして、この場所で僕との関係においては、素手であれば、どれだけ叩いても許す」、ということを説明した。こちら側に明確な基準があれば、それを示せばそれでいい。「限度」のラインを示さなければ、ただの「しかり」になってしまう。怒る場合には、誰もが明らかに分かるようなラインをきちんと引いておくこと、というか、そのラインを常に見出すように努めることが大事なのだろう、と思う。それは、親も教師もしかり、である。
あの時、怒らなければ、さらにバッドで殴られていただろう。小学4年の子だったら、力も相当ある。とてもじゃないけど、それをボランティア精神で受け入れられるほど、僕は穏やかではない。
けれど、一般の親や教師は、そういうところに到達する前に、「やめなさい」、「なんてことをするの」、と怒るだろう。それが普通の人の感覚である。
でも、子どもたちには、想像を超えるほどの「攻撃性」を兼ね備えている。それを尊重しながら、「ダメ」と言わずに、自ら反省に導くような「指導」があるのかどうか。
教育というと学力ばかりが目につくが、こういうことも、「教育」だろう。当事者としたら、かなり悩ましい問題であった。
PS
小学2年生とはいえ、バッドでお尻を叩かれると、結構痛いっすよ。ま、たいしたことはないけど。。。