最近、覚えた?言葉に、「スロースターター」という言葉がある。
スロースターターは、もともとはボクシング界の言葉で、
「出足の遅い選手」のことを指す言葉だったらしい。
それが、意味の拡大と共に、広く使われるようになった(そうな…)。
(「飲み込みの遅い人」「調子が上がるまでに時間がかかる人」という意味もあるとか…参考)
出足を遅くする。
それは、人よりも遅れて一歩を踏み出す、ということ。
今の時代、誰もが、「フライング」をする時代。
前へ前へと、常にいち早く進みだそうとする時代。
すぐに結果を求める時代。
…
その典型が、崩壊寸前の「大学入試」に示されているように思う。
AO入試という粗悪な入試が広まって、高校3年生の夏に進路が決まるという状況になっている。
「悩む時間」を与えてくれない。
まわりはどんどん「進路」が決まっていき、スロースターターの生徒は焦り出す。
それに呼応するように、進路指導の先生も、「どこにいく?」「どこに進学する?」「どこに就職する?」と圧力をかけてくる。
出足の遅い生徒は、「こまった生徒」となる。
進路とは、自分の人生の行く末を考えることなのに、じっくりそれをさせてくれない。
大学にしても専門にしても、何百万とお金がかかるものなのに、
その「決め方」といったら、なんともお粗末なことか…。
欧州では、一度高校を卒業して、しばらくバイトをしながら考えて、次の進路を決める若者も決して少なくないのに…
日本では、軍事国家?共産主義国家?と思うほどに、横並び的に18歳で「進学」する。
大学教育や高等教育の現場は、(高等教育をきちんと学ぶことのできない幼稚な学生が溢れ、90分の講義やゼミも成り立たず、高校の補習授業もやっているほどに)とんでもない状況になっているのに、親も先生も、「とりあえず進学ね♪」、と、高校生をいわば「横流し」で、高等教育に送り込んでいく。
中学生レベルの学力がないのに、「大学生」と呼ばれる時代。
学力ではなく、お金で、大学に入れる時代。(全入という意味で)
それで、一番困るのは、当の若者たちである…。
そんな時代だからこそ、考えてみたい「出足の遅さ」。
つまりは、スロースターターについて。
このスロースターターの再評価の声があるようだ。
…
この言葉を聴くと、僕は、「遅咲きの花」という言葉を思い出す。
「ゆっくりとゆっくりと、先の見えない状況で、五里霧中の中を、手探りで生きていく人」を讃える言葉だと僕は思う。
自分にとって大切なことやもの、例えば、職業選択や配偶者選択といったライフイベントにかかわる事柄は、そう簡単に決められるものではない。
うちの学生たちの中にも、「とにかく早く結婚をして、早く子どもを産んで、若いうちに母親になりたい」という女子がいる。
その理由は、「若いお母さんの方がかっこいいから」、「きれいなお母さんになりたいから」、という、、、
それが理由で、早く結婚するのか、と絶句する。
だが、それが今の時代の精神かもしれない。
「早いことがいいこと」。
それが、今の社会を示すキーワードかもしれない。
とにかく、早くて、手軽で、さっさと、ワンタッチで…、と。
けれど、「早いことは、本当によいことなのか」、と問いたくなる。
目先のことを考えれば、就職にせよ、結婚にせよ、早くてよい面もあるだろう。
まずもって、人から「賞賛」される。
「えー、もう、就職決まったの? すごーい♪」
「えー、もう、結婚するの? すごーい♪」
というように。
けれど、就職も結婚も、必ずその「先」がある。
長い長い「先」がある。
そのことを十分に考えた上での早い就職や早い結婚なら、言うことはない。
けれど、その「選択」が、20年後の自分、30年後の自分にとって、正しいものになるのかどうか。
もちろん、遅くても、選択は誤り得るだろう。
だけど、経験を重ね、知恵を得ることで、誤るリスクは軽減されるだろう。
それに、「賞賛されるから」という理由で、ライフイベントを決めてしまっていいのか。
…
大学の退学の内訳を見てみよう。
2014年のデータだけど、内実は今とそれほど変わらないだろう。
第一位は「経済的理由」だけど、注目すべきは、第二位。
なんと、全退学者のうちの15%の学生が、「転学」を理由に辞めているのだ。
さらに、「学業不振」「就職」を加えたら、ほぼ半分になる。
転学、学業不振、就職から見えてくること、
それは、「進路決定を急ぎ過ぎている」という現実であろう。
このデータの背後で、どれだけ多くの若者が、進路選択を間違い、苦しんでいることか。
その責任はどこにあるのか。
未来のある若者を苦しめているのは誰なのか。
進路が変わること自体は、人間として普通のこと。
でも、大切な青春時代を、進路の失敗によって台無しにさせられるのは、罪深い。
遅咲きの花。
なんと美しい言葉だろうか、と思う。
他の花よりも遅れて咲き乱れる花。
きっと「早咲きの花」の方が多くの人に見てもらえて、感動してもらえるだろう。
注目されるし、賞賛されるし、もてはやされるだろう。
けれど、「遅咲きの花」の方が、確かなような気がする。
多くの人に賞賛されはしないだろうけれど、分かる人には深く分かってもらえる。
いや、自分が生きている時代には認めてもらえないかもしれないけれど、歴史的に名が残るかもしれない。
遅咲きの花には、どっしりとした存在感がある。
迷いもなければ、ブレもない。
芯があって、簡単には倒れない強さがある。
早咲きの花の「栄華衰退」を見てきたので、謙虚であり、堅実である。
こんな時代だからこそ、遅咲きの花を讃えたい。
最後にニーチェの言葉を挙げておきたい。
僕が学生時代に、この言葉から「逃げる勇気」をもらった。
「市場の蝿」の節である。
***
のがれよ。わたしの友よ。君の孤独のなかへ。私は見る。君が世の有力者たちの引き起こす喧噪によって感覚を奪われ、世の小人たちのもつ針に刺されて、責めさいなまれていることを。
Fliehe, mein Freund,in deine Einsamkeit! Ich sehe dich beträubt, vom Lärme der grossen Männer und zerstochen von den Stacheln der Kleinen.
森と木とは、君といっしょに高い品位を保って沈黙することを心得ている。君は君の愛する木、あの大枝をひろげている木と、ふたたび等しくなれ。無言のまま耳を傾けて、その木は海ぎわに立っているのだ。
孤独がなくなるところ、そこに市場がはじまる。そして、市場のはじまるところ、そこにまた大俳優たちの喧噪と毒ある蝿どものうなりがはじまる。
…
真理の求愛者である君よ。こういう押しつけがましい者たち、有無をいわさぬ圧制者たちがいるからといって、嫉妬することはない。いまだかつて真理が、圧制者の腕に抱かれて、身を任せたことはないのだ。
これらの性急な者たちを避けて、君は君の安全な場所に帰れ。市場においてだけ、人は「賛」か「否」かの問いに襲われるのだ。
およそ深い泉の経験は、徐々に熟成する。何がおのれの深い底に落ちてきたのかがわかるまでには、深い泉は長い間待たなければならぬ。
市場と名声とを離れたところで、すべての偉大なものは生い立つ。市場と名声を離れたところに、昔から、新しい価値の創造者たちは住んでいた。
のがれよ。君の孤独のなかへ。わたしは、君が毒ある蝿どもの群れに刺されているのを見る。のがれよ。強壮な風の吹くところへ。
…
かれらにむかって、もはや腕はあげるな。彼らの数は限りがない。蝿たたきになることは君の運命ではない。
…
君は石ではない。だが、すでに多くの雨つぶによって、うつろになっている。これからも多くの雨つぶを受ければ、君は破れ砕かれるであろう。
君は毒ある蝿に刺されて、疲れている。百カ所に傷を負うて、血によごれている。しかも君の誇りは、それに対して怒ろうともしない。
…
君の隣人たちは、常に毒ある蝿であるだろう。君の偉大さ-それが、かれらをいよいよ有毒にし、いよいよ蝿にせずにはおかぬのだ。
のがれよ、わたしの友よ。君の孤独のなかへ。強壮な風の吹くところへ。蝿たたきになることは、君の運命ではない。
Fliehe, mein Freund, in deine Einsamkeit und dorthin, wo eine rauhe, starke Luft weht, Nicht ist es dein Loos, Fliegenwedel zu sein.
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この節について語っているYouTubeもある。
なかなかシュールな「語り」だ…(;´・ω・)
(ただ、テレビ批判に力点が置かれ過ぎている、かな)
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いずれにしても、、、
遅咲きの花となれ!
そして、スロースターターとなれ!
出足を早くするな!
心の底から、そう叫びたい。
そのためにも、「孤独になること」を恐れないでほしい。
高校を卒業した後に、一人だけ進学しない、というのは孤独だ。
でも、その孤独の中でこそ、「新しい価値」と出会えるのである。
すぐに進学する必要は、全くもって、ない。
また、大学や専門を卒業したからといって、すぐに就職する必要もないかもしれない。
いつ就職するかくらいは、自分で決められる世の中であってほしい。
(蝿どもは、なかなかそれを許さないが…)
小中は「義務教育」ゆえに、そこに「選択の自由」はほぼないが、高校以降は、基本的に「選択可能」である。
16歳で高校にいかなければならない必然的な理由など、存在しない。
同じように、18歳で大学や専門に進学する必然的な理由も、存在しない。
22歳で就職する必然性など、微塵もない。
ただ、蝿どもがそれを煽っているだけだ。しかも、その蝿どもも、なぜ22歳の「新卒」でなければならないのかの理由など、何も持ち合わせていない。
30代、40代になれば、もう、それまでの「経緯」なんて、めちゃくちゃだ。
40代になった今、若い時の数年なんて、何の影響ももっていない。
蝿どもも、本当はそのことに気づいている。
だけど、蝿どもは、そのことに気づきつつも、若者を煽るのである。扇動するのである。
悲しいほどに…。
<了>