この事件は、まさにギリギリの瞬間を示すものだと思った。
乳児を熱湯風呂に=殺人未遂で25歳父逮捕-岡山県警
2月12日13時1分配信 時事通信
生後7カ月の長男を熱湯の風呂に沈めて殺そうとしたとして、岡山県警捜査一課と岡山南署は12日、殺人未遂容疑で岡山市南輝、トラック運転手正影一広容疑者(25)を逮捕した。「育児ノイローゼで殺そうと思った」と容疑を認めているという。
調べによると、正影容疑者は11日午後9時45分ごろ、自宅で熱湯の入った風呂に長男を沈め、殺害しようとした疑い。長男は腹から下に重症のやけどを負った。
長男が泣き叫んだため、途中でやめて病院に連れて行った。
正影容疑者は自宅で妻、長男との3人暮らし。同容疑者が主に長男の面倒を見ていたという。(引用元はこちら)
岡山市内に住む25歳の男性。妻がいたにもかかわらず、長男の世話をしていた父親。どんな状況だったのかは、察せられるが、憶測に過ぎないので触れない。
注目したいのは唯一つ。過ちを犯したものの、この男性が、長男の「泣き叫び」によって、途中で手を止めることができた、という点である。
長男のお腹にはやけどの痕が残ってしまうかもしれないが、死なずにすんだ。死ななかった。つまり、生きのびたのだ。彼には、これから先命ある限りの人生が残ったのだ。80年くらいだろうか。その長い時間が消されずにすんだ。
25歳の父も、ギリギリのところで踏みとどまった。ある意味、奇跡と言えるだろう。長男の声が父親に「届いた」のであった。偶然ともいえるし、運命ともいえる。ギリギリのところで、最悪な事態は生じずにすんだ。父親にとっても、子にとっても。そして、母親にとっても。
こういう家庭内の事件は、本当にギリギリのところで、起こったり、起こらなかったり、途中で止まったりしている。昨日は昨日で、一家の無理心中がギリギリのところで起こってしまった。仕方なかったとすませることもできなければ、何があれば助けられたのかと問うこともできる。しかし、いずれにしても、最悪な事態になってしまった。
ギリギリの場所=その時間、その瞬間。
すべての思考が停止してしまうような瞬間、場。
そうした瞬間に対して、われわれの意志や理性はとてつもなく無力である。思考が停止した人間と向き合い、冷静に対応することは極めて難しい。けれど、人間には必ずそういう厳しい状況に立たされる。自分の思考が停止することも、思考停止状態に陥った人間を目の前にすることも。
そのときに、われわれはきっと叫び、祈り、良心に呼びかけるのだろう。それが無力だったとしても、最後の最後にできることは、叫ぶことであり、祈ることであり、良心にうったえかけることだけなのだ。眼をつむり、悲痛に耐え、声なき声を発するしかない。
生後七ヶ月の赤ちゃんは、まさにそういう言葉なき声を発し、父親にその声を届けることができたのだ。おそらく赤ちゃんは「父親に向かって」泣き叫んだわけではなかっただろう。しかし、父親にしてみれば、わが子の叫びが発せられ、その声を遮断する最後の砦が破壊されたのだった。奇跡とも言えるギリギリの瞬間だったと思う。これこそ、まさにブーバーのいう<我―汝体験>の究極なのではないだろうか。