Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

恋愛交差点22-「別居」や「離婚」が最初から前提となる『コンフルエントラブ』?!…永遠の愛はもう歌えないのか?!

恋愛交差点22.💕

前回は、「ロマンティックラブ」について論じました。

恋愛交差点21の記事はこちら

今回は、このロマンティックラブの問題を克服するかもしれない、

コンフルエントラブ
Confluent love

について、話してみたいと思います。

ロマンティックラブよりも馴染みのない言葉ですよね。

日本語では、【ひとつに融け合う愛】と訳されていたりします。

このコンフルエントラブは、社会学者アンソニー・ギデンス(Anthony Giddens)が提唱した概念です。

この本の中で、詳しく論じられているのが、コンフルエントラブです。

この松尾・松川訳の本では、「ひとつに融け合う愛」と訳されていますが、ここでは「コンフルエントラブ」と統一したいと思います。

この訳語の問題性について、山田昌弘さんが指摘しています

英語版がオリジナルです。

この本は、現代の恋愛を考える上での最高のテキストかな、と思われます。

特に「別居」や「離婚」、「再婚」や「パッチワークファミリー(ステップファミリー)」といった、ポスト近代的?な家族について関心のある人は、是非とも読んでおきたい一冊ですね。

この本の中で、現代の恋愛観や結婚観を反映しているのが、「コンフルエントラブ」だ、というのが、ギデンスの主張になるかと思います。

このコンフルエントラブについて、とても分かりやすく解説している記事がありました。

文春オンラインの記事です。


英国の社会学者アンソニー・ギデンズは、サラリーマンと専業主婦からなる近代家族やロマンティック・ラブの理想は崩壊する傾向にあると指摘した。そのうえで、新しい愛の形態をコンフルエント・ラブと呼んだ(『親密性の変容』)。

コンフルエント(confluent)とは合流する、融合するとの意味だ。コンフルエント・ラブは、相手の性格や人間性を知り理解することに重きを置く愛の形である。男性の年収・社会的地位、女性の容貌・優しさのようなステレオタイプ化した魅力ではなく、相手にどれだけ無防備な自分をさらけ出せるかによって愛情を測る。

その際、関係の永続性は重視されない。関係に満足しない場合、別れる選択肢も取り得る。コンフルエント・ラブは流動的だ。こうした立場から見ると、離婚すれば社会的地位や経済的満足が低下するとの理由で、愛情がないまま婚姻関係を維持する夫婦こそ不純となる。

引用元はこちら


この文章を読むだけで、だいたいのエッセンスは掴めるかと思います。

男性の年収・社会的地位、女性の容貌・優しさのようなステレオタイプ化した魅力ではなく、相手にどれだけ無防備な自分をさらけ出せるかによって愛情を測る」という一文は、もう、名文じゃないかなって思います。

まだまだ、ステレオタイプ化した恋愛観で恋愛をしている人がすごく多いと思いますが、その一方で、「相手にどれだけ無防備な自分をさらけ出せるか」で恋愛をしている人も増えてきているように思います。(それゆえに、ますます恋愛が難しく困難なものになってきている、とも…)

それともう一つ。

前回のロマンティックラブでは、愛の永続性・永遠が強く求められますが、コンフルエントラブでは、「永続性」や「永遠」は否定されます。永遠の愛や永続的な愛を否定するので、愛情がないのに、好きでもないのに、とっくに嫌いなのに、夫婦関係を続けていることも、否定的に考えるんですね。

ロマンティックラブ=「結婚したなら、一生その人と」
コンフルエントラブ=「結婚しても、嫌いになったらサヨウナラ」

って感じですかね。

離婚を前提しない夫婦愛を重視するロマンティックラブに対して、別居や離婚を最初から想定して夫婦になる(あるいは夫婦になってしまう)コンフルエントラブ。

『離婚家庭の子どもの援助』という本を翻訳した僕としては、すごく興味深い話なんです。

離婚した人たちの話を聴くと、その人たちの話を聴けば聴くほど、「凄いなぁ…」って思う自分がいます。

僕は(別れ話を切り出すことは「よくない」と考える)ロマンティックラブ信奉者なので、コンフルエントラブ系の人の英断というか、別居や離婚をする「勇気」に、(嘘偽りなく)凄いなぁって思うんです。あるいは、夫婦関係を終わらせる「覚悟」というか、「決断」というか、そういう「断ち切り」ができることが、シンプルに「凄いな…」って。。

でも、そもそも、ロマンティックラブ派とコンフルエントラブ派とで、その恋愛観というか、恋愛思想が異なっている、と考えると、納得できるんです。

「嫌いになったらサヨウナラ」(コンフルエントラブ)
「嫌いになってもこの愛は永遠に」(ロマンティックラブ)

シンプルに、全然考え方が違うでしょ?!

ギデンスのコンフルエントラブに入る前に、英語のお勉強。

confluentとは…


a: flowing or coming together(流れる、集まる、合流する、交じり合う)
b medical(医学的には)
(1): having run or grown together and so no longer discrete(共に走ったり、共に成長する、もはや別々ではない、もはや離散しない=融合性の)
(2): characterized by lesions or skin eruptions that have run or grown together(融合性発疹の)
c (cell biology, of a cell culture): covering the culture substrate completely or nearly completely((細胞生物学・細胞培養上では)培養基板の完全な又はほぼ完全なカバー)

引用元


このconfluentは、二つの川が合流する、みたいなイメージですね。

con=共に、fluent=流れるような・流ちょうな

という感じで、二人の男女が(たまたま)共に合流して、流れていく、みたいな愛、ですかね。

なので、合流した後、その川がどうなるのか、よく分からないんですね。「永続性」や「永遠」ではないので、また二つに分岐するかもしれないし、そのまま広く大きな川になっていくかもしれないし、また、途中で途絶えてしまうかもしれない…。

いずれにしても、訳すのがすごく難しい英単語なんですね。(なので、このコンフルエントラブを「ひとつに融け合う愛」と訳されていることに、疑問を呈している人もいるんです)

僕は、このまま「コンフルエントラブ」と表記したいと思います。(歌のタイトルっぽくて好きなんです💓)

さて、ギデンスの話に行きたいと思います。

ギデンスは、『親密性の変容』の中で、このコンフルエントラブについて色々言っています。

その中で、「恋愛交差点」っぽいところを抜き出してみたいと思います。

コンフルエントラブは、4章「愛情、自己投入、純粋な関係性」の中で語られています。


●私のいう「コンフルエントラブ」のための条件は、たとえ自己投影的同一化〔*「この人は運命の人だ」と直観的に思う思い込み?「相手の人柄の直観的把握」(p.66)〕によって「コンフルエントラブ」が生じていく場合があるとしても、こうした自己投影的同一化とはある意味で反対のものなのである。(p.95)

●コンフルエントラブは、能動的な、偶発的な愛情であり、それゆえ、ロマンティック・ラブにたいする抑圧されたこだわりの有す「永遠」で「唯一無二」な特質とは矛盾していく。(同)

●今日のように「別居や離婚の顕著な社会」は、コンフルエントラブを出現させた要因であるというよりも、そうした愛情が出現した結果であるように思える。(同)

●コンフルエントラブが現実の可能性としてさらに強まれば強まるほど、「特別な人」を探すことは次第に重要でなくなり、「特別な関係性」こそが重要になっていくのである。(同)

●コンフルエントラブは、対等な条件のもとでの感情のやり取りを当然想定しており、こうした想定が強まれば強まるほど、個々の愛情のきずなは、いずれも純粋な関係の原型に限りなく近づいていく。(p.96)

●(→)この場合、愛情は、親密な関係性が育っていく度合に応じて、つまり、互いに相手に対してどれだけ関心や要求をさらけ出し、無防備になれる覚悟ができているかによって、もっぱら進展していく。(同)

●コンフルエントラブは、夫婦関係の核心に初めて《性愛術》を導入し、相互の性的快楽の達成を、関係性の維持か解消かを判断する主要な要素にしていった。(同)

●ロマンティック・ラブとは異なり、コンフルエントラブは、性的排他性という意味での一夫一婦婚的な関係では必ずしもない。〔…〕この場合、性的排他性は、二人が互いにそうした性的排他性を、どの程度望ましい、あるいは不可欠なものと見なすかによって、関係性のなかで重要な役割をはたしていくのである。(p.97)

●コンフルエントラブは、異性愛に固有なものでは決してない。ロマンスという理念は、同性愛にも及んでおり、同性愛者どうしの間に生ずる男性性と女性性という区別の仕方にも、相当程度影響を及ぼしている。(同)

●コンフルエントラブは、必ずしも両性具有的なもの〔*アンドロギュノス〕ではないし、相変わらず性の差異を中心に形づくられるとはいえ、相手の特質を知ることが最も重要になるような純粋な関係性という範型を、当然想定している。(p.98)

●コンフルエントラブとは、その人のセクシュアリティが、関係性の重要な要素として達成していかなければならないもののひとつになっていくような愛情関係なのである。(同)

●コンフルエントラブが、今日、実際にどの程度性的関係の重要な要素をなしているのかについて、私はさし当たり考察しないでおきたい。なぜなら、純粋な関係性には、他にも数多くの側面や言外の意味があり、したがって、まずさきに自己のアイデンティティや人格的自立との関連性について論じていく必要があるからである。(同)


と、こんな感じで、コンフルエントラブについて論じています。

ここで最も重要だと思われるのが、次の2点です。

①「特別な人」を探すことではなく、「特別な関係性」こそが重要だという指摘、

②コンフルエントラブが出現した結果として、別居や離婚が顕著な社会になったという指摘、

です。

これまでの恋愛は、「人」に目が向いていました。どの人が自分にとっての恋愛の対象なのか、ということを問題にしてきました。どの人が自分にとっての運命の人なのか、どの人が最高のパートナーなのか、というように。

けれど、コンフルエントラブにおいて重要視されるのは、「関係性」です。この「関係性」から考える恋愛論は、それがプラトニックラブであれ、ロマンティックラブであれ、エロス論であれ、フィリア論であれ、アガペー論であれ、ありませんでした。

特別な関係性を重視し、お互いに「さらけ出し、無防備になれる覚悟」があるかどうかが問われるような愛、それが、合流型のコンフルエントラブなんですね。対象が問題にならないので、同性愛であれ、異性愛であれ、あるいは親子であれ、友人であれ、どんな相手であってもよくなるわけですね。

それから、別居や離婚が増えた理由が、コンフルエントラブの出現だ、という点も非常に示唆的だと思います。

ずっと、(ロマンティックラブ崇拝者の)僕自身、疑問に思っていました。「どうして、離婚を切り出すことができるのだろう?」、「どうして、結婚したのに、別居したり、離婚したりできるのだろう?」って。

もちろん、相手に文句や不満や不平があるのは、自然なことです。DVだったり、暴力だったり、権力関係の固定化だったり、許しがたい現実があることも分かっているつもりではあります。でも、どうして「別居」や「離婚」を決断できるのだろう?と、素朴に思っていたのです。

今でも、「永遠の愛を守ろうとする夫婦」がいる一方で、「ばっさり切り捨てる夫婦(の一方)」がいるんです。この前も、「あ、わたし、離婚しました~。せいせいしました。二度と、見たくも話したくもないですね~」と言っていました。その女性(20代後半)は、DVを受けていたわけではなく、暴力的な夫だったわけでもなく…、「好きじゃなくなったから」「相手への関心が完全になくなったから」「二人の未来が見えなかったから」という理由で、離婚を決めていました。

この二つの重要点(関係への視点、別居・離婚の原因論)は、コンフルエント=合流的な恋愛のイメージをはっきりとさせてくれます。

二人の関係が引き寄せられるように合流して、しばらく同じ川を流れて、そして、その関係性が硬直してきたり、不純になったり、無関心になったり、対等さを失ったりしたら、分流していく=別の道を行く、という恋愛のイメージ。

お互いに欠けたパーツである男女が、両性具有的に結びつき、その結びつきを永遠に永続的に守っていくようなロマンティックラブではなく、たまたま偶然に、お互いに能動的に関係を生きて、そして、その関係がぎくしゃくし、修復不可能となれば、「はい、サヨウナラ」というような恋愛関係。

このコンフルエントな恋愛が普及したから、20世紀末には、別居や離婚が増大し、4組に1組~3組に1組の夫婦が別居ないしは離婚を決断するようになった、と言えそうです。

では、どうして、そんな(別居や離婚をも前提とするような)コンフルエントラブが普及したのでしょうか?!

コンフルエントラブが広がった背景には、

①教育の質の向上

②通信メディアの変容・発展

があるように思います。

一つは、やはり教育の質、もっと言えば、女性の教育の機会の拡大が大きく影響しているように思います。20世紀は、女性の地位が格段に上がりました。日本でも、女性の大学進学率は劇的に増えました。

それと同時に、女性の生き方、思考の仕方、社会的地位もずいぶんと変わりました。男性にぶら下がらなくても、十分に楽しく生きていけるようになりました。これは、既に80年代~90年代に確認できる事実ではないでしょうか。女性も知恵と知識を身にまとうようになり、「クズな男に、自分のかけがえのない人生の時間を費やすのは、無駄だ」という意識が強くなったのではないでしょうか。

また、コンフルエントラブが普及する要因として、また、女性の思考の仕方に影響を与えた要因として、②の通信メディアの変容・発展があるように思います。

受け身の姿勢でただ情報を受け取るしかなかったラジオ・TVの時代は、まだジェンダーにまみれたロマンティックラブがもてはやされていました。

ですが、90年代の終わり頃から、能動的に情報を取りにいけるようになりました。インターネットの時代ですね。恋愛のことも、別居や離婚のことも、性のことも、セクシュアリティーのことも、みんな、自分から能動的にコミットメントできるようになりました。

その結果、「別居や離婚をしても、大丈夫なんだ…」と思う人が増えていったように思います。

というか、もともとそういうコンフルエントな生き方をしていた人たちが、解放され、自由になり、そういう生き方が可能となっていった、というべきでしょうか。(その典型例が、同性愛の人たちかもしれません…)

ロマンティックラブは、自分たちの愛の永遠性・永続性を見いだすので、最後の最後まで、その愛を貫き通さねばなりませんでした。ロマンティックラブは、自分も相手も、根気強さ、忍耐力、持続性、継続性、(常に相手のことを知り続ける)好奇心や知性が求められます。簡単に言えば、「どちらかが死ぬその時まで、相手の人を愛し続けなければならない」のです。

でも、そんなことができる人って、そんなに多くはないんだろうな、と今は思います。

ロマンティックラブは、ある種、愛する能力の長けた人向け、というか、一つのものや人を大事にし続けられる人だけが可能となる愛のような気がします。

と考えると、このロマンティックラブのことを「無理だ」「こんなの、できない」と思う人も出てくるんだと思います。かつては、「女性が我慢すること」「女性が耐えること」で成り立ってきたんですね。それだけだったんです。

でも、今や、女性たちの学歴も上がり、知性も男性以上に身につけられるようになり、変わりました。

そうなると、ロマンティックラブは、持続困難な恋愛になってしまいます。

そこで生まれたのが、コンフルエントラブだったのかな?、と。

だから、誰かがそれを強く求めて広まった愛というよりは、それが時代の必然だったというような愛だったのかもしれません。

信頼関係をベースにしつつ、その信頼が壊れるまでの間の恋愛。

偶然性が強くて、流動的で、永遠を誓い合わない愛。

それが、今の社会における「最善の愛」なのかもしれないし、そうでないかもしれません。

ただ、このコンフルエントラブが浸透してしまっている今、「永遠の愛」や「運命の愛」を歌うことはもうできません。「永遠」も「運命」も、もう、誰も信じていないからです。

このコンフルエントラブを否定することはできるのでしょうか?

このコンフルエントラブに抵抗できる愛、しかも、プラトニックラブでも、ロマンティックラブでもない愛というのは、存在するのでしょうか?

その辺が、次に考えなきゃいけないことかな?!って思います。

永遠の愛は、もう歌えないのか?

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