『らくだの涙』(Die Geschichte vom weinenden Kamel)を観た。
当時ミュンヘン映像大学の学生ビャンバスレン・ダバーとルイジ・ファロルニの共同卒業制作である。
モンゴル生まれのダバー監督が子供の頃に聞いたという話に仲間達が感銘を受け、それを主題にこの半ドキュメンタリー映画はできた。
ゴビ砂漠に生きる或る遊牧民家族の日常生活を描いている。
彼らが連れているのは駱駝と羊。
ある日一頭の若い駱駝が難産の末に白毛の駱駝を産み落とすが、彼女は子駱駝を受け入れない。
世話をする家族達の努力もむなしく、どうしても子供を受け入れない駱駝に、最後の手段は昔からの風習で駱駝に音楽を聞かせる事だった。
駱駝親子についての結果から言うと『音楽治療』は見事に成功するのだ。
街から駆けつけた馬頭琴奏者の奏でる音の響きと歌、風の音が母駱駝の体のを包む。まるで奇跡のような話だけれど、遊牧民達はそれを当然の成り行きといった感じで淡々と受け止めている。
出演者達は当然役者ではなく、街からかなり離れたところにテントを張っている遊牧民家族である。彼等は演技をせず、カメラの前で普段の生活をすることを受け入れていると言う感じだ。
監督等は幾つかの話のポイントを挿入しながら実際の遊牧民の日常をカメラに収めていくわけだがその幾つかは難問である。
例えば
1)実際の遊牧民で沢山の駱駝を持つ家族を捜す事。
2)中に身篭った駱駝がいること。
3)生まれた子駱駝をその母駱駝が受け入れない事。
4)音楽のセレモニーを終えて駱駝が涙を流す事。
1)と2)については何とかなりそうな条件に思える。(それでもひとしきり捜して大変だったらしいけれど。)しかし3)、4)に関しては奇跡を待つしかないというものだ。
監督等、製作者はインタヴューに答えて
「我々は、いくつもの晴らしい贈り物を貰った。」と語っている。
その上、子らくだは珍しい白毛と来ているのだから、駱駝ばかりか彼等も涙を流して喜んだに違いない。
フィルムの中でラマ僧が、我々はこの自然を守る使命を、子孫にそのままの形で引き渡す使命を負って生きるのだよ、と語り、祈った。
話の最後におまけのように一シーンが付け加えられている。それはその遊牧民の生活の中にテレビが入って来た場面である。
このシーンを入れるか入れまいかについて監督等は随分悩んだようだったが、この変化を地球の何処にあっても止めることは出来ないのだ、と言うことで挿入したそうだ。
昔からの遊牧民達はそのうちに消えて行くのだろうか?
変化受け入れ、形をかえながらも彼等の文化は引き継がれて行くのだろうか?
この監督等は社会的、政治的問題をあえて強調する事はしない。
自然の中に生きる人間の姿を通して問うて来る物は国境を越えている。
モンゴルの草原に行って見たい。
当時ミュンヘン映像大学の学生ビャンバスレン・ダバーとルイジ・ファロルニの共同卒業制作である。
モンゴル生まれのダバー監督が子供の頃に聞いたという話に仲間達が感銘を受け、それを主題にこの半ドキュメンタリー映画はできた。
ゴビ砂漠に生きる或る遊牧民家族の日常生活を描いている。
彼らが連れているのは駱駝と羊。
ある日一頭の若い駱駝が難産の末に白毛の駱駝を産み落とすが、彼女は子駱駝を受け入れない。
世話をする家族達の努力もむなしく、どうしても子供を受け入れない駱駝に、最後の手段は昔からの風習で駱駝に音楽を聞かせる事だった。
駱駝親子についての結果から言うと『音楽治療』は見事に成功するのだ。
街から駆けつけた馬頭琴奏者の奏でる音の響きと歌、風の音が母駱駝の体のを包む。まるで奇跡のような話だけれど、遊牧民達はそれを当然の成り行きといった感じで淡々と受け止めている。
出演者達は当然役者ではなく、街からかなり離れたところにテントを張っている遊牧民家族である。彼等は演技をせず、カメラの前で普段の生活をすることを受け入れていると言う感じだ。
監督等は幾つかの話のポイントを挿入しながら実際の遊牧民の日常をカメラに収めていくわけだがその幾つかは難問である。
例えば
1)実際の遊牧民で沢山の駱駝を持つ家族を捜す事。
2)中に身篭った駱駝がいること。
3)生まれた子駱駝をその母駱駝が受け入れない事。
4)音楽のセレモニーを終えて駱駝が涙を流す事。
1)と2)については何とかなりそうな条件に思える。(それでもひとしきり捜して大変だったらしいけれど。)しかし3)、4)に関しては奇跡を待つしかないというものだ。
監督等、製作者はインタヴューに答えて
「我々は、いくつもの晴らしい贈り物を貰った。」と語っている。
その上、子らくだは珍しい白毛と来ているのだから、駱駝ばかりか彼等も涙を流して喜んだに違いない。
フィルムの中でラマ僧が、我々はこの自然を守る使命を、子孫にそのままの形で引き渡す使命を負って生きるのだよ、と語り、祈った。
話の最後におまけのように一シーンが付け加えられている。それはその遊牧民の生活の中にテレビが入って来た場面である。
このシーンを入れるか入れまいかについて監督等は随分悩んだようだったが、この変化を地球の何処にあっても止めることは出来ないのだ、と言うことで挿入したそうだ。
昔からの遊牧民達はそのうちに消えて行くのだろうか?
変化受け入れ、形をかえながらも彼等の文化は引き継がれて行くのだろうか?
この監督等は社会的、政治的問題をあえて強調する事はしない。
自然の中に生きる人間の姿を通して問うて来る物は国境を越えている。
モンゴルの草原に行って見たい。