今日は「日本人はアメリカ人より抽象的なものの考え方が不得意である」という仮定にそって、この問題を考えてみたい。この「日本人が抽象的なものの考え方が不得意である」という仮定について正否をまじめに論じるとこれ又大変な議論になるので、個人的な経験等を交えて簡単に説明したい。
個人的な経験からいうと、アメリカに駐在していた時、ゴルフ場等へ行く道筋の説明を受けることがあった。この場合日本人は必ずと言って良い程、地図を描く。一方アメリカ人は必ずと言って良い程、文章で記述する。この事から私は日本人は絵画的、具体的表現が得意で、アメリカ人は文章的、抽象的表現が得意なのではないか?と私はずっと考えていた。
金融等の契約について考えてみると、日本人は従来余り細かい取り決めを好まず「問題が発生した時、誠意を持って協議する」といった条項で済ませてしまう。これに対してアメリカ人は事前に想定される事態を事細かに定義して、取り決めを予め契約に盛り込んでおく。
以上のようなことからここでは「日本人は抽象的思考が相対的に不得意である」という仮定が正しいという前提で話を進める。
ところで金融というものは、極めて抽象的思考を要するものだと私は考えている。まずお金というものが抽象的だ。確かにお札や硬貨は具体的なものである。しかし、高度な資本主義経済下でいわゆる現金の占める割合は低い。大部分は銀行の預金口座に入っていたり、債券や株式の形で保有されている。債券や株券は昔は紙に印刷されていたものだったが、今や保管機構に預けられ現物を見ることも少なくなった。株式については平成21年を目処にペーパーレス化されるはずだ。つまり今や大部分のお金は目に見えるものではなく、バランスシート上の数字として認識されるものになった。
ポートフォリオ理論や金融資産の証券化あるいはデリバティブといった金融工学の理論と実践は殆どアメリカ(一部欧州)を中心に発展してきたが、これは極めて抽象的なものの考え方をベースにしている。
例えば金融資産の証券化ということを考えてみる。証券化の代表例は売掛債権なので売掛債権を例にしよう。売掛債権の証券化とは、さまざまな信用リスクの差を持った債務者をプール化して、多階層の債券に仕立て直し、投資家に販売するものだ。ここでは債務者の個別性は捨象され「債務を受取る」という権利だけが抽出・抽象される。これが統計的な債務不履行リスクにより、最優先して「債務を受取る権利を持った」債券や劣後した債券に分解され、リスク許容度が異なる投資家に販売されるのである。
一方日本では手形割引というものがあった(少なくなっているが今もある)が、これは手形振出人や裏書人の個別の信用を土台としたもので、極めて個別的・具体的なものである。日本人は個別的な分析は得意だから、AならA、BならBという個別企業について信用リスクが高いとか低いといったことは分析し判断する。しかしその判断は神ならぬ人間が行なうことだから、絶対間違わないということはない。しかし一昔前の金融マン特に銀行員は、この「絶対間違わないことはない」という当たり前の事実を受け入れることができなかった。「間違わない様に努力する」ということと「間違いかない」ということを混同していたのである。
日本人はA、B、C,・・・・と極めて多数の債務者を束ねて、その全体としてのリスクはどうなのか?といったことを判断し、分散投資によりリスクを軽減するといったことにおいては、アメリカ人の様に得意ではない。
デリバティブというものも、デリバティブ=派生という言葉からして抽象的だ。例えば債券先物というのもデリバティブの一つだが、これはある決められた利率と償還期限を持つ架空の債券を先物取引所で売買するものだが、現物(実際に発行された国債等)に較べていかにも抽象的である。
この様な話をしていると、際限がないのでこの辺りで止めにするが、要は金融理論とその実践は抽象的思考の上に築かれていると言って良い。
「日本人はモノ作りのある分野では世界一になったが、金融はだめだ」といった言葉を聞くことがある。そしてその理由として「車やカメラ等のモノ作りは、世界に出て世界の他の企業と競争してきたので、力が着いたが金融は世界で勝負しないから力が着かない」といった説明を見る。これについてある程度同感はするが、元々具体的・絵画的あるいは工芸的表現力に強いが、抽象的・言語的表現力に相対的に弱い日本人は~例外的に強い人もいるが風土として弱い~、金融という業務における適性がアメリカ人より低いのではないか?というのが私の一つの結論である。