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戦争責任(9)。。。人類史上最大の悲劇・第2次世界大戦(太平洋戦争)

2019年03月17日 | 国際政治
戦争責任(9)。。。人類史上最大の悲劇・第2次世界大戦(太平洋戦争)

戦死者1600万人、戦傷者2000万人強の犠牲者を出して終わった第一次世界大戦のベルサイユ講和からわずか20年、人類は新たな戦争に踏み出した。近代兵器は人類滅亡をも予感させる原子爆弾まで登場し戦争被害者は世界人口の2.5%・8500万人にまで達したといわれる人類史上最大の殺戮による悲劇となった。

第一次世界大戦で敗戦国となったドイツは厳しい講和条約・ベルサイユ条約により本国領土の一部を失った。これらの領土は、所謂民族自決主義でポーランド・チェコなどの領土に組み込まれたのだが、そこには多数のドイツ系住民が居住し少数民族の悲哀を味わうこととなって、民族紛争の地雷原となった。更に海外領土は日本等戦勝国が分割没収したうえ、巨額の戦争賠償を課せられドイツ国民を苦しめることとなり、この厳しい講和条件がナチス・ファッシズムを生む一因となった。
戦争賠償はドイツを弱体化させる必要があったのと、特に英仏は戦費のためアメリカから膨大な借り入れを行っており、賠償金無しに返済は困難だったことがその背景にある。
第一次世界大戦の戦時景気に沸いたアメリカ経済は終戦により過剰設備に陥り経済が低迷していたところに、バブル化していたアメリカ・ウォール街株式相場の暴落が引き金となって世界恐慌が発生した。当時アメリカは世界最大の債権国であり、世界から資金を引揚げる動きを示したこと、更にアメリカその他の各国が保護貿易主義に走ったことも、世界恐慌に繋がったのである。この世界恐慌による社会的・経済的混乱が偏狭な民族主義や排外主義を唱えるカリスマ的指導者・ファッシストを生み、ファッシズム国家の対外侵略政策が第二次世界戦争を引き起こすことになったのである。
欧州では、選挙で合法的に選ばれた正当なスペインの共和政権をドイツ・ナチスのヒトラーやイタリーのムッソリーニのファッシズム連合のサポートを受けたスペインのファッシスト反乱軍・フランコ将軍が国際義勇軍に支援されたスペイン人民戦線による抵抗にも拘らず圧倒的武力で打倒した。この勝利によりフランスの背後に友軍を得たヒトラーは自信を深め、イタリーと軍事同盟を結び、ソ連と不可侵条約を結んでポーランドへ侵攻を開始した。スペイン戦争で沈黙を守ったフランス・イギリスもドイツへの宣戦を余儀なくされることとなった。イギリス・フランスの傍観姿勢がヒトラーを抑える最後のチャンスを失わせたのである。
ヘミングウェイの有名な小説「誰がために鐘は鳴る」…(ゲイリー・クーパーとイングリッド・バーグマンの主演で映画化もされた)や、マルローの「希望」の舞台となったこのスペイン戦争こそ第2次世界大戦の幕開けであった。

アジアに於ける世界戦争の発端は1931年関東軍が独断で起こした満州事変である。
中国は1911年の孫文等による「辛亥革命」により皇帝溥儀(ふぎ)の退位により清朝が滅び中華民国( 1912年南京で建国宣言) となった。しかし全国各地に軍閥が群雄割拠し1916年から1928年にかけて内戦状態が続いていた。これらの軍閥を平定し国の統一を図るため孫文の革命運動に加わった中国国民党の蒋介石が立ち上がり北伐によって各地の軍閥を次々と平定し、満州軍閥の張作霖を残すのみとなった。この張作霖を日露戦争後に満鉄(南満州鉄道)守備の為設置されていた関東軍が日本政府の許可を得ず独断で爆殺してしまった。この為息子の張学良が日本に対抗するため満州を国民政府に合流させた為、蒋介石の北伐は完了した。

一方日本では浜口内閣がロンドン軍縮会議で海軍の反対を押し切って軍縮条約を結んだが、軍部・右翼等から「天皇の統帥権侵犯である」との批判浴び退陣、次の若槻内閣も中国の主権を尊重し中国内政に干渉しないという幣原外相の協調路線をとっていたが、軍部は軟弱外交と批判し、抗日運動に危機感を募らせていた関東軍が1931年柳条湖で自ら満鉄を爆破し、これを中国軍の仕業だとでっち上げ戦争を始めた。宣戦布告が無かったので、戦争ではなく、満州事変と言われている。満州を占領した関東軍は外国の非難をかわすため1932年満州人による国家、満州国を建国するという形をとった。これに反対した時の犬養首相は軍部により暗殺された(5.15事件)。  この明らかな侵略行動は国際連盟から総批判を浴び日本は撤兵を求められたが軍部に抗し切れない政府はこれを拒否し1933年国際連盟を脱退した。この年中国では蒋介石は抗日の前に中国共産党との内戦に勝つことを優先し日本と停戦協定を結び満州事変は終息した。しかし中国主権への公然たる侵犯は中国での抗日救国運動を呼び起こし、蒋介石は張学良に拘禁され国共合作(毛沢東や周恩来等が率いる共産党への協力)、抗日民族統一闘争を誓わされた。これが中国の運命を変えた西安事件(1936年)であったが、この中国の変化に全く気付かず何等手を打つこともなく戦争を長引かせた陸軍首脳や時の首相・近衛文麿、独走する関東軍首脳の頭の中は空疎そのもの「無能な烏合の衆」であった。そのような情勢の中1937年、盧溝橋一帯での些細な日中両軍の軍事衝突が発端になって日中全面戦争が始まった(日中戦争…宣戦布告無き為日本ではシナ事変と呼んでいた)。日本軍は間もなく首都南京を占領、南京大虐殺を起こして世界の批判を浴びることとなったが当時日本国民には一切知らされず詳細な事実は戦後連合国によって明らかにされた。
この残虐行為が中国国民を団結させ人民やゲリラの激しい抵抗にあい各地で孤立し戦線は停滞・長期戦となった。このシナ事変は日本の真珠湾奇襲と宣戦布告で米英蘭連合国と太平洋戦争を開始した1941年12月蒋介石の重慶政府が日本に宣戦布告したことにより太平洋戦争に引き継がれることとなった。
 

戦争責任(10)…太平洋戦争の原因は日本の中国侵略にあり
        (亡国の無能な戦争屋・軍人官僚)  へ続く


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