追憶の彼方。

思いつくまま、思い出すままに、日々是好日。

靖国参拝について

2023年08月20日 | 宗教
 
靖国参拝について
8月15日、78回目の終戦記念日に各地で戦没者の追悼式が行われ、京都西本願寺でも戦没者追悼供養が行われた。
日本武道館では全国戦没者追悼式が開催され、天皇陛下が「過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表します」と例年通りではあるが見識の高いお言葉を述べられた。岸田首相は昨年の式辞コピペの棒読みで、安倍路線を踏襲して「過去の反省の弁」は一切なく、保守層へのおもねりや安倍の呪縛から抜けられない事を世界中に披瀝した。
一方靖国神社には鉄板装甲車に日章旗、拡声器で軍歌をがなり立てる右翼団体の華々しい応援の元、安倍のお陰で現在の政治家の地位を得た高市大臣や萩生田政調会長、その他保育園の遠足行事の様な名前を付した「みんなで靖国参拝する国会議員の会」のメンバー、2~30名が無表情に雁首連ねて行進する異様な風景、そのテレビ放映を見た内外の多くの人達を唖然茫然とさせた。
考えてみれば、政治家が「靖国に参拝しました」と言わんばかりに目立った行動をとるのは、選挙目当ての下心があるのは歴然としている。政治家の靖国参拝に内外の強い批判がある中、本当に心からの慰霊の為であるのなら、目立たぬように行けば済む話である。幾ら抗弁をしても、遺族会や神社本庁を中心とする右派連中、保守派の票が目当てである事が見え見えである。慰霊の気持ちも無いのに票目当て、酷暑の中黒装束で靖国に出かけざるを得ない立場、哀れと言う他は無い。
戦争の犠牲者は何も軍人・兵隊だけではない。戦争犠牲者に対する慰霊の想いがあるのであれば、天皇陛下や首相が参列する全国戦没者追悼式に何故出席しないのか、理由を明確にする必要がある。
更に靖国神社と同じ様に招魂社を前身とする護国神社は全国に52社もあり、こちらの方にも慰霊を行うのが筋である。これ等を無視して靖国に拘るのは、其処には東条等の戦争犯罪人が「神」として祀られているからだと言われても仕方が無い。(明治天皇が東京の招魂社を靖国神社と命名したに過ぎない。その他の招魂社は護国神社と改称された。)

終戦記念日における首相の靖国参拝は、1985年の中曽根首相の公式参拝から中断していたが、小泉元首相が橋本龍太郎元首相と総裁選を争った際、保守層の票の取り込みを図り劣勢を挽回しようと、選挙公約に靖国参拝を取り入れ、首相退陣直前の2006年に現職首相としては21年ぶりとなる終戦記念日の参拝を行った。小泉の参拝は選挙の票集めが歴然としており、折に触れ極東国際軍事裁判の結果を受け入れ、過去の植民地支配やアジア諸国への加害に対し、謝罪と反省の意を述べていたので対外的には大きな摩擦を生まなかった。ところが、その7年後安倍が総理として参拝した時には、中国、韓国、北朝鮮は勿論の事、米国・オバマ政権は失望(or懸念)を表明、ロシア、EU、イスラエル、台湾までが批判的な声明を出し、海外有力メデイアも名指しで軍国主義者、歴史修正主義者と非難した。日頃の安倍の右派的言動も影響したが、その大きな理由は靖国には極東国際軍事裁判の結果処刑された戦犯が「国家に公式的な貢献を為して死んだ者」として、「其の英霊を「神」として祀り」、「彼等の事績を永く後世に伝える」としている点にある。
戦犯が「国家に貢献した」、戦犯が「神」になった、「彼等の事績を永く後世に伝える」、その何れもが外国はもとより我々大きな被害を被った日本人にも全く受け入れ難い。
(尚日本国内には太平洋戦争はアメリカの罠にはめられたと言う事を唱える人物も多い。靖国神社の歴史資料館遊就館には、「米・ルーズヴェルト大統領は真珠湾攻撃が実施されることを知っていたが、放置して日本から先に手を出させる形にした」という陰謀論が記述されている。アメリカが靖国神社を嫌う理由はこんな点にも有るのである。)
靖国参拝者が「太平洋戦争を正当化」し「軍国主義に回帰する」ものでは無いと幾ら抗弁しても、靖国神社の主張は真逆、戦争犯罪人を「立派な事績を残した(神)」に仕立てるのは、太平洋戦争の正当化に通ずると言われれば抗弁出来ないであろう。全国戦没者追悼式の追悼対象には戦犯も含まれているが、こちらに首相や議員が参列し、追悼の意を表しても諸外国は文句を言わないのはそこに理由がる。
 
古来、「神は依代(よりしろ)に宿る」と言われた。人間も含め万物に神は宿り、力を発揮する。その神には、怖い荒御魂(あらみたま)、優しい和御魂(にぎみたま)、両面の性格を備えて居り(聖書のゴッドも同じ)、機嫌を損ねると祟りがあるので、ご機嫌を取って丁重に慰撫し、お祀りをするのである。民族学者柳田國男によれば、人を神に祀る習俗の本来的な形式は「非業の死者」の祟りを鎮めるための神格化であるとして、「祟り 神起源説」を唱えている。中世から近世にかけて、非業の死を遂げた人物は怨霊の形で社会全体に天変 地異をもたらした。これらの怨霊の祟りを鎮めるため、神社を創建しその人物を神として祀ることが行われたと言うもので、歴史的には、人を神として祀る場合は「怨霊慰撫型」であった。しかし、その人物が神に祀られた後、時代の経過につれて、怨霊が次第に忘れられ、霊験あらたかな神として信仰される様になった。「菅原道真」が平安京・清涼殿落雷事件などで日本三大怨霊の一人として知られたが、後に天満天神として信仰の対象となり、その後学問の神様として親しまれるようになり「勲功顕彰型」に変容した。又祀るべき怨霊の数が増えてくると、祖霊と一緒に纏めて祀られるようになり、「祖霊崇拝型」も兼ねるようになる。

靖国神社もその起源は「怨霊慰撫型」であったはずである。安政の大獄以来幕府の弾圧で無念の死を遂げた志士達の霊を福羽美静という人物を中心に京都霊山に祀り、それを靖国の「本宮」(注)に移したと言う経緯がある。その後、維新の受難者を慰霊する為、招魂場が造られたが、維新政府は日本の伝統文化を否定し、神社の祭祀も海外と同じ「勲功顕彰型」にするよう指導したのである。西郷隆盛の様な明治政府に対する反乱者であっても「怨霊慰撫型」であれば祀られるが、慰霊の形が変わった為に、死後祀られる可能性が無くなったのである。
東条の様な戦争犯罪人の場合も「怨霊慰撫型」であれば、(彼等は極悪非道の人間であるが、祟りが恐ろしいので怨霊の災いを鎮める為、祀って慰霊する必要がある)と言いたいところだが、「国家に貢献した為「神」として祀り、彼等の事績を永く後世に伝える」と言わざるを得なくなった為、諸外国から「太平洋戦争を正当化する」、国内からはそれは無いだろうと、反発の声が高くなるのである。(本宮;現在(本宮)への参拝は治安の関係で、事前許可取得が条件である。)

戦後多くのA級戦犯が処刑されたが、安倍の祖父、岸信介は処刑されず獄中から生き返ったばかりか、総理に迄上り詰めた。処刑された人間や家族が遺恨の情を抱いているであろうと、岸信介や孫の安倍が想像するのはごく自然であろう。彼等が靖国を参拝するのは死した人間の祟りまではいかなくても、遺恨の念を鎮める為であろう。この「怨霊慰撫型」を理解して貰う以外に靖国参拝のトラブル解決は無いだろう。
 

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安倍神社建立!

2023年07月12日 | 宗教
安倍神社建立!

安倍元首相が神になる。銃撃事件から一年がたち、安倍を祀る神社が建立されるという週刊誌情報が話題を集めている。安倍の廻りには何となく、鬼気迫る薄気味悪い女性が群がっている、どうせそんな連中が発起した話だろうと思っていたら、建立するのは、奈良県吉野にある「吉水神社」宮司で元警察官という異色の、佐藤素心(82)と言う人物、山口県の同郷で生前から交流があり、最近安倍の“言霊(ことだま)”が降りてきたので鎮魂する為に「安倍晋三大人命」、古事記に倣って「大人の命(みこと)」にしたらしい。場所は佐藤氏の移住先・長野県の白樺林の中、費用は3百万円で賽銭箱は設けないと言う。私なら生前の業績に照らして、さしずめ「 葉茶滅茶大明神」が最適だと思うが、日本では悪人だって神になれる、厄病神に貧乏神、風神、雷神、山の神、怨霊となって祟る神もあり、更には長崎県の対馬にある今宮若宮神社が祭る神は(小西マリアというキリシタン)、何でも御座れの「神」の世界の事だから、個人が誰を神にし、大仰な名前を付けようと自由なのだと聞けば納得せざるを得ない。
その内、岸田による「(バイデンのみこと)の為のバイデン神社」何ていうのも現れるかも知れない。

多くの人物が神の定義を行っているが、中でも江戸時代の国学者・本居宣長の定義が最も有名、且つ説得力があると言われている。人だけではなく、鳥獣、木草、海山、岩等々、それが通常のものより(優れていれば)神であるとしている。巨木にしめ縄を巻き、敬うと言う景色はよく見かけるし、伊勢志摩や福岡桜井二見ケ浦の夫婦岩等も同じだろう。
そして、神の基本的な性格である「優れている」について注釈を加えて居り、善いものも、悪いものも、それが他のものにくらべて優れて居れば、どちらも神である。神は善神ばかりとは限らない。悪いものであっても、その程度が他と比べて甚だしいものであれば、それは神だというのである。
その一例が、常陸国風土記に登場する夜刀神(やとのかみ)、その姿を一目見ただけで、一族一家が根絶やしにされると言う(蛇神)で、祟りを鎮める為、 茨城県行方市に夜刀神社が建てられている。
吉田松陰も松陰神社に祀られているが、彼が日本の軍国主義、覇権主議化に多大の影響を及ぼし日本を破滅に導く思想的素地を作ったという意味では私見ではあるが重罪人である。 
人間は死後、神になると考える人が多く、一族の先祖(祖霊崇拝)や社会的に突出した人物、地域社会に貢献した人物、国民や国のために働いた人物、国家に反逆し戦乱を起こした人物、不遇な晩年を過ごし死後怨霊として祟りをなした人物(御霊信仰)なども「神」として神社に祭られ、人神として人々の崇敬を集める例がみられる。
兎に角、ウイキペデイアに示された日本の神の一覧を見るとア行から始まり、その数の多さに圧倒される。日本の神社の数だけでも、8万社あり、日本で一番多い最強の神社は武運の神(武神)、弓矢の神である、八幡神であると言われている。源平合戦屋島の戦いで那須の与一が平家の建てた扇の的を射る際、南無八幡と祈って矢を射たので有名になったとも言われている。
皮肉なことに安倍が銃撃された近鉄奈良西大寺駅近くには、有名な山上八幡神社があり、何やら因縁めいて居り、この銃撃事件と結び付け、尾鰭を付けて語られる事があるらしい。
何でも御座れの「神」の世界、ノリと勢いで祠(ほこら)や社を建て、実在人物を神様として祀る人はいるものの、末永く信仰の継続が無ければ神とはならないと言うのが神社本庁の考えらしい。  森羅万象に神が宿るとする日本の信仰は美しく、半面ややこしくもあるが、肝心の信じる人がいなければ成立しないと言う事で淘汰されて行く、果たして、安倍は神になれるのか……!? 山上神社は建てられるのか!?極めて興味深い。

戦国時代、日本にキリスト教布教に努めたザビエルらは彼等の信奉するゴッド(ラテン語ではデウス)をどのように伝えるか大いに悩んだと伝わっている。天主、天尊、天帝、果ては真言宗の(大日如来)迄広げて、試行錯誤したらしいが、うまく行かず結局(神)に落ち着いた。しかし神と命名したことが日本でキリスト教が広く浸透することに大きな障害となり、日本では宗教の主流とはなり得ず今日に至っていると言われている。司馬遼太郎が指摘するように日本では古来、地面に顔を出した岩の露頭でさえ下に広がる岩の大きさを想い,奇異を感じ畏れを覚えれば、その周りを清め、みだりに足を踏み入れ汚さぬようにした。それが神道である。奈良に有る三輪神社は本殿を設けず(拝殿は江戸時代に作られた)、三ツ鳥居を通じ三輪山(三輪三山)を拝するという原初の神祀りの様子を伝える我が国最古の神社のひとつであるが、古来この山が神であり続けている、と指摘している。
要は古来日本人の心には「至る所に神宿る」 、その数と種類の多さから「八百万(やおよろず)の神」という考えが染み付いていたのである。
日本の神は夫々専門店を構え、売り出しており、一神教のゴッドの様な万能の総合店ではない。「菅原の道真」の様な学問専門の神も居れば、乃木大将の様な軍事専門の神、狐をみ使いとする稲荷神(稲荷神社)の様な豊作専門の神様もいる。そんな環境のところにキリストは「愛の神」と説いたところで、「自己犠牲愛で民を救う事を専門にする神」で終わってしまい、「八百万の神」の一つにされてしまうのが落ちである。ゴッドによる天地創造を伝えても、我々にも「古事記に伊邪那岐命等による国生みの神話がある」で、さらっとかわされてしまうのである。(そう言えば聖書の天地創造の神話と古事記の天地創造神話は極めて似通っている。)
今だにキリスト教関係者の間でゴッドを神と訳したのが大失敗だったと話し合われているらしいが、時や遅しである。
もう一つキリスト教が布教の過程で「信仰と恵」により本人は救われるが既に死んだ祖先の救いは神が判断すると言うキリスト教の教義が災いした。祖先供養・祖先崇拝の日本人の仏教思想は余りにも根強く、これを解きほぐすことが出来なかったのである。
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宗教について

2016年09月21日 | 宗教
法社会学者、小室直樹氏によればインド人はこの世の本質は苦であると思っていたし、一方ユダヤ人は虐殺・追放・迫害と苦難の連続であった。
このインド人、ユダヤ人が優れた宗教を生み、世界諸宗教の母体を作ったのである。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教である。


中国への仏教移入は三蔵法師の一人、玄奘三蔵等唐代の僧達の努力もあって盛んに行われたが中国では「人生皆苦」という考えはあまりなじまず、道教や儒教が大勢を占めた。
一方「人生は楽しい」「苦もすぐに自然消滅する」という意識・無意識的に記憶が継続しない日本人の特性から中国から伝わった仏教は大きく変質し、国家鎮護、災厄回避、病魔退散、祖先崇拝,先祖供養と云った、現生的利益を願う祈祷仏教に変質し、しかも釈迦や如来等仏を中心に据えず宗祖中心の宗派仏教になって、もはや宗教とは云えなくなってしまった。 
或る意味日本は世界でも珍しい無宗教国家である。

仏教、それは必ずしも釈迦(如来)の教えではなく、まず秩序・法則・慣習・道徳と云った「法「ダルマ)」があり、これこそ真理であると悟ったのが仏(釈迦)である。
神やキリストが居ないとキリスト教は成立しないし神の教え、命令は絶対であるが、仏教では法さえあれば成立するし、釈迦の教えは必ずしも絶対ではない。
釈迦の悟りは法の自覚であり、釈迦の伝道は法の伝達であった。
(法を学ぶ仏の弟子の集団が僧である)
釈迦の教える真理としての法には「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の三法印がある。
「一切のものは刻々変化する」「すべての存在には我がない」「煩悩の炎が吹き消された悟りの世界(涅槃)は静やかな安らぎの世界・境地である」
又「一切皆苦」とは現実を生きることは本質的に人間にとって苦である。無常・無我の世界に常住や自我を求めるから苦になる。

仏教の経典の中で6百巻に及ぶと言われる般若経の経典を最も簡潔に表した経典、般若心経のうち玄奘が訳したのが大般若波羅密多経である。
そこに書かれた空の思想、即ち最高の真理(般若[はんにゃ])から見るとすべてのものは実体がない(空[くう])だという教え、これこそ仏教の真髄であると言われている。

色即是空…即ち仏教の空理論によれば、魂もなく地獄・極楽などあるわけがない。地獄・極楽などと云うのは無知な人を自分の宗派に惹きつけ、金もうけを企む為の方便に過ぎないということである.
病気・老衰・苦痛何れも妄想に過ぎないという事を自覚すればすぐ消える。
欲望は実在しない。それは妄想に過ぎないことが自覚できれば、一切の煩悩は消え輪廻の苦からも解き放たれ、解脱して涅槃に入り仏陀になる、即ち成仏である。
日本の多くの宗派では簡単に成仏できるように伝えられているが、仏教の考えとは異なる。
これについては改めて書いてみたい。
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