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戦争責任最終回―2

2021年09月24日 | 政治・経済
戦争責任最終回―2
昭和16年(1941年)11月東条首相が対米開戦方針を昭和天皇に上奏した際、戦争の大義名分は何かと聞かれ、「研究中であります」、としか答えられなかった。
海軍では米国の禁輸措置で止むにやまれずの「自存自衛」であると言う意見が多かったが、これは石油等の資源の自給自足体制を確立する為に、他国(最初は中国に、日中戦争後は東南アジアに)に侵略することであった。一方陸軍は東条を中心に「泥棒する為の侵略(東条の発言)」では戦争の大義名分が立たないとして、アジアを開放し、日本を盟主に共存共栄の広域経済圏をつくりあげるという「大東亜共栄圏」を主張し続けた。太平洋戦争は「アジアの独立・民族開放の為の聖戦…大東亜戦争である」という主張である。しかしこのような主張をするのは東条に近い一部軍人のみで、多くの軍上層部は「資源政策や軍事戦略上の重要性」から、太平洋戦争の引き金となった北・南仏印進駐を語っている。その証拠に当時の軍最高の命令機関であった「大本営」の機密文書、陸軍参謀本部長への勅命「大陸命」には仏印進駐の目的は【①シナ側補給路線の遮断、②占領地の治安を回復し重要国防資源を取得し、且つ軍自活の道を確保する為、占領地に軍政を施行ス】、と明確に述べられている。この勅命は陸軍参謀総長・杉山元の名前で各前線司令官に伝達され、「鉄や石油等の重要国防資源の確保の施策」の徹底が図られる事になった。
この為ベトナム・マレーシア・シンガポール・インドネシアは独立を認められず、日本領に編入されて軍政が行われる事になった。軍は現地での自活を図る為、軍政と同時に予め日本で印刷し準備していた現地通貨表示の大量の「軍票」を現地通貨と等価で流通させ、物資調達を図った為、現地は数百パーセントという凄まじいインフレに見舞われ、現地国民の生活は窮乏を極める事となった。
「白人の帝国主義支配からアジア人の解放」「大東亜共栄圏の確立」等は東条が云った通り「泥棒」を隠蔽する為の方便に過ぎなかった。「大日本帝国を盟主とする」と言った数々の条件付きで形式的に独立を認めたのは、ビルマ・フィリピンのみで、満州国と同じ植民地化であり、「東亜の解放」を名目に、英・米・オランダの支配地域から資源を奪い取る事が主目的であった。

 太平洋戦争は1941年12月8日、宣戦布告をする前にハワイ・真珠湾攻撃とマレー半島英軍への奇襲攻撃で始まった。10日、中国が日本に宣戦布告、11日には独・伊両国がアメリカに宣戦布告し、遂に世界大戦の開始となった。戦争目的は8日の宣戦詔書では「自存自衛」、12日の閣議決定では「大東亜新秩序建設」、戦争名称は「大東亜戦争」と迷走した。
天皇から避戦を託された東条だが陸軍強硬派に恐れをなし、主戦論に凝り固まった参謀総長・杉山元、参謀本部作戦部長・田中新一を解任すべしとの声に耳を傾けず其のまま留任させた為、彼等は米国との外交交渉の期限を10月上旬から末日に変えただけで昭和天皇の避戦の意向の芽は完全に無視していたのである。木戸内大臣の東条起用は完全な誤算でその責任は極めて重大であった。

戦局は闇討ち的な真珠湾攻撃とマレー半島英軍攻撃によって大きな戦果を挙げ、翌1942年1~2月マニラ・シンガポール占領迄は順調に勝利を収めた。政府の戦勝祝賀国民大会、大政翼賛会、愛国婦人会、日本文学報国会、在郷軍人会、マスコミが競って戦勝気分を盛り上げ、開戦後の半年間は国を挙げて戦勝に酔いしれた。 文豪・武者小路実篤ですら「日本を敵に回す恐ろしさを知らないルーズベルト・チャーチルは何んと馬鹿なんだろう。」とまで言わしめている。
しかし僅か半年で舞台は暗転した。42年6月ミッドウエー海戦で、空母4隻全滅、艦載機285機、熟練パイロット100人,将兵3千54人の喪失等、太平洋の制海・制空権を完全に失う事となった。米軍は早い時期に撃沈した日本の潜水艦から暗号書を引揚げ、海軍の暗号解読に成功して居り、日本の大艦隊出撃を察知して、強力な空母艦隊・航空隊で待ち受けていた。甲板に爆装した儘放置された航空機もろとも大規模攻撃を受け赤城等の空母4隻は戦わずして誘爆を起こして沈没した。情報戦の優劣が戦局を大きく左右したことになる。海軍は敗戦の事実、責任の所在を明らかにせず、当時の読売新聞は米空母2隻を撃沈という情報のみを伝えている。「大和」を旗艦とした戦艦7隻を中心とする連合艦隊主力部隊は、敵艦隊は現れないだろうと言う勝手な思い込みで、南雲機動部隊のはるか後方300海里(約5百50キロ)の位置に留まっており、実戦には参加していなかった。旗艦・戦艦大和で作戦の指揮を執っていた山本五十六連合艦隊司令長官の責任は極めて大きい。
5月7日米軍が降伏したフィリピン・コレヒドール島を脱出したD・マッカーサー大将は連合軍司令官としてミッドウエーの勝利を反攻の時期と捉え8月7日ガダルカナル島に猛攻撃を加えた。
日本も陸海軍をつぎ込み反撃したが戦略の不味さから惨敗を重ね、食料・薬品の物資補給も出来ず、マラリアと飢えで戦場はさながら地獄絵と化した。この戦いで航空搭乗員2362人が戦死、上陸した3万人の兵士の内2万人が死亡したが、其の8割弱は餓死と病死だった。12月末大本営は撤退を決定、1943年2月に所期の目的を果たしたと国民を欺き「ガ島」からの転進を発表した。(退却を転進、敗戦を終戦と言い募る往生際の悪さは日本の伝統である)
一方連戦連勝のドイツ軍もモスクワ近郊まで攻め込んだがスターリングラード攻防で戦力を使い果たし、同じ43年2月ソ連軍に降伏した(投降者20万人)。枢軸国側はこの時点から坂を転げ落ちるように劣勢に追い込まれる。
3月、武器弾薬不足で苦戦中のニューギニア部隊救援の日本輸送船団8隻が全滅、3千6百人が海の藻屑と消えた。4月、孤立したラバウル航空隊激励に赴いた山本司令長官が撃墜死した。
5月にはアッツ島の守備隊が全滅した。アラスカ州極寒の地、日本兵2千6百人に対し島の奪還を図る米軍は1万1千人を投入、樋口司令官は増援を送る事が出来ず『玉砕し皇国軍人精神の精華を発揮せよ』と打電した。守備隊は命令通り傷病者は全て処分し、敵陣に死の突撃をおこない玉砕した。

劣勢局面を何とか打開したいとして、東条が打ち出したのが『大東亜会議』の開催である。会議に先立ちビルマ(現ミャンマー)、フィリピンの独立を承認,チャンドラ・ボース首班の『自由インド仮政府』の承認を行い大東亜省を設置した。
43年11月に開催された会議には上記3国にタイ王国、日本の傀儡政権(満州、中国国民政府)が加わったがタイは参加を拒み首相代理が参加した。共同宣言は『大東亜各国は相提携し大東亜戦争を完遂する』として戦争への協力を促したが、玉砕相次ぐ落日帝国のあがきとしか映らなかった。帝国議会の反軍政治家・斎藤隆夫は『自国の戦争目的は正義、他国のそれは不正義であるから、最後の勝利は我にありと宣伝したところで何人も真面目に受け取る者は無く…』と批判した。
この会議に首席したチャンドラ・ボースが東条に英国支配が続くインドへの派兵の直訴を繰り返した。これが日本軍7万2千人の死傷者を出したインパール作戦の契機となった。インドの要請を知った牟田口廉也第15軍司令官がインド東北部インパール占領作戦構想を作成したが、現地制空権は連合国が握っており、道路・物資補給面と悪疫等問題山積として反対する大本営に対し、功を焦り執拗に作戦実施を迫り、東条に直訴までした結果、東条からこの辺で一つ大きな戦果を挙げてくれと言われたビルマ方面軍司令官・河辺正三が賛同に廻り、1944年1月実施が決定した。
牟田口の作戦は『食料は敵に求めるか又は野草とする、3週間で攻略する』という正気とは考えられぬ無謀なものであった。当然の事ながら雨期の泥濘の中、マラリアと食糧不足、弾薬不足で戦闘能力を無くし、作戦中止は7月まで持ち越された為、多くの兵士が見殺しとなった。師団長が訴えた如く、『軍と牟田口の無能』が多くの兵士の無駄死を招く事となった。
同じ頃、欧州とアジアで決定的な戦闘があった。史上最大の作戦と言われた『ノルマンデイー上陸作戦とサイパン島上陸作戦』である。この2大作戦の成功により連合軍は第二次世界大戦の勝利を確実なものにした。
サイパン島奪還の為急行した日本の連合艦隊は空母3隻、航空機430機を失い、孤立した日本のサイパン守備隊は44年7月7日全員玉砕した。これ以降、テニアン島、グアム島、硫黄島などで日本軍は次々玉砕していくことになる。 日本兵が捕虜にならず、死の突撃を行って玉砕するのは1941年1月に東条陸相が示達した『戦陣訓』の中で『生きて虜囚の辱めを受けず』として捕虜になる事を禁止していたからである。戦陣訓は如何に多くの兵士を無駄死にさせたか、この責任は計り知れないものがある。
44年7月18日、東条はインパール作戦の失敗とサイパン島陥落の責任を取って辞任した。
この時参謀本部は『戦争遂行の為の国力整備の見通し立たず、対米攻勢反復出来る力は無い。敵の侵攻決戦で相手を破砕出来る自信無し、等々』極めて厳しい現状認識を示していた。この時点で最高戦争指導会議が戦争終結の決断をしていたら、少なくとも150万人近い日本人の命が救われていたことになる。(フィリピンで50万、ビルマ・沖縄・硫黄島等で30万、満州で20万、本土空襲と原爆で50万という計算になる。)
残念ながら東条の後を継いだ小磯首相は、何とか米軍に一矢を報い有利に対米講和に持ち込みたいと言う日本伝統の虫の良い『一撃講和』を考え、新たに設置した最高戦争指導会議では杉山陸相等から必勝を信じ,戦争完遂に一路邁進すべきと言った勇ましい発言が次々出された。大本営・陸海軍部は本土決戦を決意し国防の為の地域別捷号(しょうごう)作戦を立てた。一号はフィリピン、2号は沖縄、3号は本土である。しかし早くも44年10月にはフィリピン・レイテ島陸海戦に敗れ45年1月マニラは陥落した。作戦は2号の沖縄戦に移ったが、大本営は沖縄を本土防衛の為の前線としか位置付けておらず、本土決戦の準備に重点を置く必要から沖縄への増援を怠った。沖縄は本土ではなく、単なる時間稼ぎの戦場、謂わば『捨て石』としか見ていなかったことになる。海軍上層部に多かった薩摩人の沖縄に対する伝統的な考えである。
45年2月米軍は、小笠原諸島の硫黄島に上陸、3月17日までに守備隊2万人が玉砕・戦死した。
4月1日、愈々米軍は沖縄攻略作戦を開始した。上陸部隊18万人を含め55万人の太平洋戦争史上最大規模の上陸作戦であった.これに対し沖縄に配備された日本の正規軍は陸軍8万6千人、海軍陸戦部隊1万人に過ぎなかった。
当然のことながら、戦闘は悲惨を極め、6月23日牛島司令官,長参謀長の自決で事実上終結、戦死者は日本兵9万4千人、県民も9万4千人であった。軍の増援が無かった為、17歳以上の男子2万数千人を根こそぎ招集、中学・女学校の生徒達を学徒動員として駆り出し、『ひめゆりの塔』の様な悲劇を生んだ。
兵力不足によってフィリピイン・レイテ開戦で大西中将が始めた『特攻隊攻撃』が戦闘の主流となった。
45年4月5日小磯内閣総辞職、東条が威圧的に陸軍出身の畑俊六をを推したが、重臣や天皇の意向で海軍出身の枢密院議長・鈴木貫太郎(本人は固辞)に組閣大命が下った。陸軍は鈴木を警戒し杉山陸相は①戦争完遂、②本土決戦必勝の為陸軍の施策実行等を組閣条件として強要、鈴木はこれを受け入れた。東条の廻りには何の成算も無いのに戦争完遂を叫ぶ狂的な軍官僚が集まり、クーデター迄検討し始めていた。
その翌日6日、航空特攻が九州や台湾基地から沖縄周辺の米軍艦船目標に出撃、6日だけで222機を喪失、学徒動員による学生を含む340人が戦死した。3月中旬から終戦に至る沖縄方面での航空特攻の死者は3千人強に達した。4月5日連合艦隊は『戦艦大和』等第2艦隊に沖縄への海上特攻を命じた。最早海軍首脳は完全に正常な判断力を喪失していたことになる。7日沖縄に到達する前に米軍機の攻撃を受け3700人の将兵と共に撃沈、海の藻屑と消えた。
沖縄戦に敗退し、鈴木内閣は『一億玉砕』のスローガンの下、『国民義勇隊』の結成を決め、戦闘要員として男子15歳~60歳、女子17歳~40歳を動員する『国民義勇兵役法』を制定した。武器は竹槍、弓、指股、信長が使った様な先込銃等であった。軍上層部は狂気の戦争継続を図る為、国民は消耗品、国民の生命など一顧だにして居なかった事を物語る。
米軍も沖縄戦で1万2千人余りが死亡、6万2千人余りが神経症を含め負傷した。米政府首脳は大きな被害に衝撃を受け日本本土進攻の再検討に入った。6月3日米・ステイムソン委員会が日本への原爆使用を勧告、7月16日原爆実験に成功した。
沖縄での日本軍最後の抵抗日である6月22日、最高戦争指導会議メンバーが天皇に呼ばれ、戦争の終結も含め意見聴取をうけた。この席で東郷外相が考えていたソ連を通じた和平工作案が示され、初めて戦争終結への努力が天皇によって後押しされる事になった。東郷外相は、広田元首相とマリク・ソ連大使との交渉を画策したが進展せず、戦争終結の天皇意向を伝える親書をモロトフ外相に手渡すべく近衛特使が検討されたが、ソ連から特使派遣を拒否された。ソ連は4か月も前にヤルタ会談でドイツ降伏後3か月以内の対日参戦を米英に約束して居たが(実際、8月8日に対日宣戦布告をしている)、日本はこの事実に全く気付いていなかったのである。(しかし日ソ中立条約は46年4月迄有効でありロシアの完全な条約違反である。)
欧州では4月30日総統ヒトラーが地下壕で自殺し、5月7日ドイツが連合軍に無条件降伏していた。連合軍はドイツ・ベルリン近郊のポッダムで7月17日から米・トルーマン、英・チャーチル、露・スターリン3首脳で行われていたが、ポッダム宣言には米・英首脳と中国・蒋介石総統が署名した。元々ソ連は日本と戦争状態になかった事と、米は原爆成功を受けソ連の参戦が不必要となったと考えソ連外しに出たのである。
1945年7月26日ポッダム宣言が発表された。内容はドイツに対するより緩やかであったが,陸軍の反発もあり東郷は少しでも有利になるようソ連からの(来る筈のない)返事が来るまで回答を引き延ばす作戦に出た。しかし鈴木首相が記者会見で『ポッダム宣言は重大な価値は無く黙殺し、戦争完遂に邁進する』と、軽率に口走ってしまった。
この『黙殺』発言が連合国側に宣言拒否と受け取られ、米国による原爆投下とソ連の対日参戦の口実に使われる事になった。東郷等がソ連の回答を首を長くして待っていた8月6日朝、広島に、9日には長崎に原爆が投下された。又スターリンの『軍事的貢献無しに極東での勢力拡大は無い』との判断に基づき、ソ連軍の一斉越境もはじまった。
9日、最高戦争指導会議が天皇臨席の下開催された。受諾条件を『国体護持』一本に絞ると言う東郷案に阿南・梅津・豊田が『武装解除は日本が自発的に行い、戦争犯罪人の処罰も日本が行う。』という虫の良い条件付加を主張したが結局天皇の裁断で受諾が決定した。
15日青年将校グル‐プがクーデターを画策し阿南陸相に決起を求めたが、阿南は陸軍に対する天皇の信頼は完全に消失したとして、これに応じず自決した為、かろうじて不発の儘一件落着した。
同日天皇による『終戦の詔勅』がラジオで放送された。9月2日には東京湾ミズリー戦艦上で降伏文書に調印がなされた。真珠湾攻撃から3年8か月が経過、日中戦争を含め日本の戦没者、軍人軍属2百30万人、一般市民・内地50万人満州等外地で30万人であった。7月26日のポッダム宣言発表後、沖縄、硫黄島、空母からの
B29爆撃による全国への爆撃は熾烈を極め、原爆投下も含め8月15日の終戦詔勅放送の日迄続き、凄惨な光景を晒すことになった。

この様に見てくると日米開戦後の責任を考えた場合、天皇の『避戦』の意向の芽を葬り去った東条、杉山元(参謀総長),永野修身(軍令部総長)、嶋田繁太郎(海相)、田中新一(参謀本部作戦部長)、服部卓四郎(作戦課長)、等の開戦強硬論者達の責任は極めて重い。東条の本質を見破れず推挙した内大臣木戸幸一の責任も重い。
東条体制を支えた(陸軍)杉山、佐藤賢了・軍務局長、(海軍)永野、岡敬純軍務局長達が成算皆無なのを無視して恫喝的に戦争完遂を叫び続けた罪は重い。更に制海・制空権を失い占領地からの石油や物資補給路を断たれ、多くの将兵の戦死もあって戦闘能力を完全に焼失し、敗北は時間の問題であったにも拘わらず、幼稚・夢想的な「一撃講和」論に拘り、戦争終結への真剣な議論を怠たり、勝算なき戦争を長引かせて、多くの死者等国家の損失を膨らませた小磯首相を筆頭に、最高戦争指導会議で戦争完遂等の強硬論を唱えた杉山陸相,梅津参謀総長、及川軍令部長の責任も重大である。

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