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戦争責任(10)…太平洋戦争の原因は日本の中国侵略にあり…(3)

2019年05月23日 | 国際政治
戦争責任(10)…太平洋戦争の原因は日本の中国侵略にあり…(3)
        …亡国の無能な戦争屋・軍人官僚 
明治維新は欧米列強の外圧をはね退け、日本国の独立を守ることにあったが、その為には一刻も早く彼らに追いつく必要があるとして取られた施策が「文明開花」と「富国強兵」である。「王政復古」は富国強兵を達成・強化する為の手段であった。
明治維新政府が長州藩、吉田松陰の思想的影響を受けた人間が中心であった為、松陰の覇権主義が常に頭にあったことは想像に難くない。持たざる国、日本が富国強兵を推し進め、それが平衡感覚を失って行き過ぎ始めたとき、覇権主義、他国への侵略に繋がることは必然であった。維新直後に既に台湾出兵、琉球処分、征韓論が顔を出し,山縣有朋が実権を握ると日清戦争、日露戦争へと繋がって行く。 この侵略戦争の勝利が軍部を傲慢にし、メデイアや学者がこれを煽った為に情報不足の国民が軍を後押しする構図が出来上がった。
軍部の横暴を許したのは政治の弱体化に加え、山縣が作った軍部大臣(陸軍・海軍)現役武官制と若手将校によるクーデターであった。軍部大臣現役武官制により国政は軍部の意向に逆らえなくなり、海軍将校による5・15事件では当時の政党政治への不信感から犯人の将校たちに対する国民の助命嘆願運動が巻き起こって、将校たちへの判決は軽微なものとなった。このことが反乱・クーデターを起こしても罰せられないという空気を生み、二・二六事件・陸軍将校による反乱を後押しすることになった。この事件では昭和天皇の命により関係者は処刑されたが、政治家や軍上層部を震え上がらせ若手軍人による再度の反乱を恐れるようになった。
これを契機に大局感や先見性の乏しい若手軍人が政治に口出しを始め、対中・対米英開戦への大きな心理的圧力となったことは間違いなく、日本は軍国政治に突っ走り始めたのである。
華族の爵位授与を固辞し続けたため、「平民宰相」と呼ばれた原敬は当時「政党を殺すのは軍部と検察だ」と語っていた。民主主義を嫌った国粋主義者・平沼麒一郎らが幸徳秋水等の冤罪死刑で有名になった大逆事件の功績で検察は大きな権力を得た。彼らは大きな検察権力を使って政党潰しを行った為、政党弱体化に拍車をかけることとなった。事件をでっち上げそれを糧に出世しようという悪弊はこの時出来上がり、今も検察に脈々と受け継がれている。
昭和になると、日清・日露戦争当時の山縣・長州閥中心の軍幹部に替わって、陸軍士官学校・海軍兵学校を優秀な成績で卒業したエリートが軍部官僚として軍を支配することになった。巨額の国費、多数の兵の犠牲を出しても軍功を上げさえすれば貴族への道さえ夢ではないという明治指導者の悪しき前例により職業軍人こそ出世の近道であるとして学業優秀な若者を陸士・海兵へ誘い、無謀な戦争、作戦に駆り立ててゆくことになる。(事実、満州事変の関東軍司令官・本庄繁は男爵の爵位を得た。)
戦後連合軍による極東軍事裁判の結論は「軍国主義日本の政・財・官・軍の中心人物達が共同謀議し計画的にアジア征服に乗り出した」というものであった。しかし日中戦争や太平洋戦争の引き金を引いたのは共同謀議というような組織立ったものではなく、中堅幕僚(参謀)の暴走に引きずられたというのが真実であろう。
陸海軍の反目、陸軍(皇道派,統制派)、海軍(条約派=海軍省側、艦隊派= 軍令部側)各々の内部での対立・派閥抗争等を繰り返し、組織がバラバラで明確な戦争の統一的な意思や計画などというものは無く、野心的な軍事テクノクラート達が個人的な軍功を立てる為に勝手に動きまわって国政を誤らせ日本崩壊に導いていったということが出来る。
この中堅幕僚の暴走の発端は陸軍の派閥組織・一夕会の有力メンバーで当時関東軍の参謀であった石原莞爾や板垣征四郎による陸軍中央の統制を無視して実行された満州事変・満州国の建設である。現場の独断専行にも拘らず責任を問われることが無かったのはメデイアに扇動された世論の「満州に権益を確保した」という賞賛の声に押され政府や軍幹部も処罰・信賞必罰の行動がとれなかったことが大きい。この事件が「結果良ければ全てよし、お咎め無し」の風潮を生み、軍の独断専行と「権力の上層部から中堅幕僚への下降」をきたす契機になったのである。
その後参謀本部作戦部長に栄転していた石原莞爾は、一夕会メンバーの4年後輩で関東軍参謀・武藤章による中央統制無視に泣かされ、盧溝橋事件が発端となった日中戦争では、作戦課長に昇進していた武藤の戦線拡大論に敗れ関東軍参謀副長に左遷されることなった。石原の考えは満州で国力を蓄え大国と戦う準備ができるまでは紛争・戦争を拡大すべきでないという信念に基づくものであった。この下克上により陸軍の権力は課長クラスにまで下りたことになる。石原は左遷された関東軍で当時の関東軍参謀長・東條英機と満州国の運営構想で対立し急激に勢いを喪失した。しかし其のお陰で極東軍事裁判で石原は被告人にもならなかったが、軍内部で敵の多かった武藤は中将という階級で唯一人死刑判決を受けた。武藤が『一撃で中国を屈服させられる』として戦線拡大を唱え、軍上層部もこれに同調したのは松岡洋右外相の「ナチスドイツがイギリスを倒せば、アメリカが欧州での足場を失う事になるというドイツ過大評価の全く根拠の無い期待・願望に基づくものであった。日本はそれを頼りに日独伊三国同盟を結び、しかもドイツが1939年8月に独ソ不可侵条約を結んでいたので、三国同盟にソ連が加えた4ヵ国連合を結成すれば、アメリカを封じ込めることが出来るという松岡や武藤の独りよがりの楽観論が政府や軍にも蔓延していた。このような状況下、松岡がほぼ独断で41年4月「日・ソ中立条約」を結んだが、それから2箇月後に、何とドイツが不可侵条約を破棄してソ連と戦争を始めた。
時の首相・平沼騏一郎は日本政府を無視し反共姿勢に転換したドイツのやり方に驚き呆れ、8月28日「欧州情勢は複雑怪奇」 という無責任極まる声明とともに政権を放り投げてしまった。 ドイツとの関係を断ち切りアメリカとの関係を修復する最後の機会であった。
ヒトラーは日本を想像力の欠如した黄色の劣等民族の集団だと考えており、今迄の外交政策から心底日本を信頼していたわけではない。一方日本の大本営・参謀本部にはヒトラー崇拝者はいたが、この人物の本性、とりわけ一方的に条約を破棄し相手を平気で裏切るというような凡そ信頼に足る相手ではないことを冷徹に見抜くような人物がおらず、大勢に流されドイツ頼みの南進政策、破滅への道を進んでいくことになる。 前回のブログで触れた通り、対ソ戦でドイツが優勢だったのは開戦後の半年だけで年末にはドイツの敗色は濃厚になりつつあり、アメリカの支援で頑張りとおしたイギリスは息を吹き返し始めていた。
東条や日本陸軍は冷静な情勢判断が出来ず、落ち目のドイツを頼りに大国「米・英」に戦争を仕掛けるという愚行に出たのである。しかし当時参謀本部には海外から貴重な情報が届けられていた。
NHK特集「日米開戦不可ナリ…ストックホルム―小野寺信大佐発の至急電」というサブタイトルが付いた特集番組で詳細に報じられている。当時のストックホルム駐在武官・小野寺信から参謀本部への詳細な情報と日米開戦不可の進言である。同盟国・ドイツがイギリスではなくソ連へ侵攻する意図を持っていること、その後のドイツの「対ソ連戦」の戦局が不利な状況になりつつあると言った情報を得て、英米への「開戦不可」を30回以上も打電した。例えばその情報とは「ドイツ軍は東部へ向かい戦死者のための棺を多く輸送している」などの客観的事実である。小野寺は、祖国愛に燃えるポーランドの情報収集武官からの情報によって当時の欧州の戦局を正確に掴み、ドイツ側からの情報だけに頼るのは危険であると日本本国へ何度も警告した。太平洋戦争末期の昭和20年02月、ルーズベルト・チャーチル・スターリンの米英ソ三首脳によるヤルタ会談とその中でソ連の対日参戦が密約された情報を得た小野寺は、ただちに「戦争を終結すべし」との打電をこれも必死に繰り返したが日本の参謀本部はその情報を無視し、ヒトラーと親交が深くナチスに心酔していた「陸軍軍人大島浩ドイツ大使」の情報だけを採用して、ついに日米開戦に踏み切ったのである。同じ情報は駐スイス公使阪本瑞男からのドイツ帝国瓦解との本国電も黙殺し、大島によるドイツ有利との誤った戦況報告を重用し、戦争を継続し続けて亡国に突き進んだ。
当時参謀本部の中枢に居て数々の作戦に関与していた瀬島龍三は「そのようなドイツの対ロ戦局の情報が知らされていたら断固として日米開戦を阻止した」と戦後述べているが、極東裁判における責任逃れの虚実発言や大勢順応型の処世術等から判断し大本営の対米英開戦の空気に逆らうような発言を避ける必要があると判断し、貴重な情報を握りつぶしたとの見方が強い。当時東条はじめ軍幹部の多くはドイツ駐在の経験者でありドイツ信奉者多かったのである。大島浩、瀬島龍三共に極東裁判で自分は当時重要な方針を決定できるような立場になく、上層部からの命令で動いたに過ぎないとすぐに底が割れるような責任回避の虚実発言を繰り返している。
余談ながら民間人の中にも日米開戦を阻止しようとした人物がいた。「粗にして野だが卑ではない」という有名な石田語録、新幹線開通時の国鉄総裁として世に知られる石田礼助氏である。昭和14年(1939年)三井物産社長に就任したがシアトル・ニューヨーク両支店在籍経験のある石田はアメリカの国力を熟知しており戦争しても全く勝ち目はないと考え、三菱重工業の郷古清社長等有力財界人を集め戦争をやめるよう説得工作を開始した。日本鋼管社長の浅野良三が天皇の側近である木戸幸一に、石田は海軍大将岡田啓介、更には高松宮をも訪ね詳細な資料を持参して熱心に陳情したが、唯一反応があったのは三井高公(三井家11代当主)からの呼び出しでその場で辞表を書かされこの動きは鎮静化してしまった。
三国同盟・対米開戦一色の軍内部でもこれに反対する軍人は少数ながら居た。東京裁判を主導した主席検察官のキーナンは、米内光政(49-52代海軍大臣。第37代内閣総理大臣。)・若槻礼次郎・岡田啓介・宇垣を「ファシズムに抵抗した平和主義者」と呼び賞賛し、四人をパーティに招待し歓待している。

米内海軍大臣は、日独伊三国軍事同盟に終始反対し、8月の総理・陸・海・大蔵・外務の五相会議の席上で、3国同盟を締結すると日独伊と英仏米ソ間で戦争となる、海軍として見通しはどうかと問われた時に米内は「勝てる見込みはない。日本の海軍は米英を相手に戦争ができるように建造されていない。独伊の海軍にいたっては論外」と言下に答えた。8月30日 昭和天皇は、米内に「海軍が(命がけで三国同盟を止めたことに対し)良くやってくれたので日本の国は救われた」という言葉をかけたという。
若槻礼次郎や岡田啓介は、木戸幸一の推す東條英機の首相就任に反対し、戦争末期には終戦工作に関与し、東條内閣の失政を追及して倒閣に重要な役割を果たした。
対米・英開戦に至る動きは前回ブログのとおりであるが、この無謀な戦争の責任者は誰かについて次回ブログで触れたい。
尚昭和天皇や入江侍従長とも面識のあった田中清玄は入江相政侍従長から直接聞いた話として、「先の大戦において私の命令だというので、戦線の第一線に立って戦った将兵達を咎めるわけにはいかない。しかし許しがたいのは、この戦争を計画し、開戦を促し、全部に渡ってそれを行い、なおかつ敗戦の後も引き続き日本の国家権力の有力な立場にあって、指導的役割を果たし戦争責任の回避を行っている者である。瀬島のような者がそれだ」という昭和天皇の発言を自著に記している(Wiki)。 伊藤忠商事入社後は岸信介首相とスカルト大統領との間で取り決めた800億円強のインドネシア賠償に悪名高い辻参謀や軍隊時代のコネを利用し伊藤忠を食い込ませ、利権網を築いた。これを皮切りに日韓条約ビジネス、日本の2次防バッジシステムビジネス等を通じ田中角栄や中曽根康弘等政界大物との人脈を築いて会長にまで上り詰める。会合での挨拶・演説では「対米戦争は自存・自衛の為に立ち上がった。大東亜戦争を侵略戦争とする議論には絶対に同意できません。」 瀬島や岸信介には多くの生命・財産を無駄にし亡国に導いたことに対する反省・悔悟の言葉は一切見られない。


戦争責任(10)…太平洋戦争の原因は日本の中国侵略にあり…(4)
日米開戦を進め亡国への道を走らせ者達
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