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戦争責任…(6) 太平洋戦争への道

2018年11月04日 | 国際政治
戦争責任…(6) 太平洋戦争 への道
 
日露戦争では陸軍・海軍ともに正確な戦史を作って居たが、そんな物は無かったことにして、都合の良いところだけを抜き出し官製の戦史を作成して一般に公表したのである。作家・司馬遼太郎は、お蔵に眠っていた戦史の事など露知らず「坂の上の雲」を書いたので、旅順攻囲戦で日本軍が膨大な戦死者(戦力5万1千に対し戦死1万5千強)を出したのは第3軍司令官の乃木と参謀長の伊地知幸介の無為無策が原因であるとする考えに基づいて小説を発表してしまった。 この小説によって司馬の所謂「愚将論」が世間一般に定着していたが、終戦から30年後宮中から膨大な戦史記録が防衛省に払い下げられ正確な戦史が明らかになったことによって,司馬史観は誤解偏見によるものであることが判明した。幕末維新史等と同じで、歴史は屡々権力に都合の良い様に捏造されるという典型である。
戦死者はロシア3万1千人に対し日本8万4千人強、病死者もロシアの倍を超える2万7千人と大きな損害を出したが,その原因は一つには「砲弾の不足(銃剣と精神力による肉弾戦…人間の武器化)」、二つ目には武功を焦る海軍の独断(当初旅順艦隊殲滅は海軍が単独で行うとして陸軍の参戦を拒否し続けた)、更には「大本営の状況判断の欠如と戦略不足、現地トップとの意見不一致」が挙げられる。
有名な203高地攻略はロシアの旅順艦隊殲滅の海軍・大本営要請を当初は現地の満州軍総司令部幹部「大山・児玉・乃木」は反対・拒否していたが御前会議迄開いての圧力に抗しきれず実行に踏み切った。しかしこの時点でロシアの旅順艦隊は壊滅状態で戦略的な意味合いは無くなっていたのである。本争奪戦では、多くの戦死者を出した。第7師団(旭川)は、15,000人ほどの兵力が5日間で約3,000人にまで減少したし、乃木大将の次男も戦死している。
官製の連戦連勝報道で国論は沸き立ったが、内実は国力を使い果たし、これ以上の戦争継続は困難、一刻も早く講和を受諾したいと言うのが本音であった。開戦時は日本軍は若手の精鋭、ロシアは俄か仕立ての老兵であったが講和会議の頃にはロシアが精鋭部隊を派遣し陣容が整ったのに対し日本側は老兵のみしか残って居らず、強硬な主戦論者であった満州軍総司令部の児玉源太郎大将が最も熱心な講和主張論者となっていたのである。もしロシアが革命に至る政情不安が無く、アメリカのタイムリーな講和の申し入れも無く戦争が継続していれば結果はどうなっていたか、軍当局者が一番知っていたことになる。
華々しい連戦連勝の管制報道しか知らされていない国民が賠償金も無い講和条件に怒り狂い日比谷焼き討ち事件に迄発展したのは蓋し当然であるが、戦争の実態は全く違っていたのである。
政府や軍は何故事実を隠したのか。半藤一利氏の著書「あの戦争と日本人」によれば理由の一つはロシアが何時復讐戦に来るか分からないという恐怖、特にロシアにとってこれは極東の一局地戦に過ぎないしロシア軍を徹底的に叩き潰した訳ではない。加えて何よりも戦勝に沸き立つ国民、我慢を強いた国民に水を差すようなことは出来ない、国民的熱狂が事実隠蔽を後押ししたことになる。
更に日露戦争を戦った陸海軍人・官僚・文官の叙勲である。陸軍65人、海軍35人、文官31人全員が戦功により貴族になっている。山縣・伊藤(博)が公爵、井上馨・松方正義・野津道貫、桂太郎が侯爵、東郷・乃木が二階級特進で伯爵、第3軍参謀長伊地知が男爵と言った具合。
戦病死者11万人の上に成り立つ武功叙勲、偉くなるためには事実を隠さざるを得なかった。栄光と悲惨の幕開け、これが明治維新の結果である。
日露戦争はロシアとの全面戦争ではなく、極東という辺境の局地戦に勝利したに過ぎない。
勝因は1)地の利…武器・食料等の補給、兵員増派等の差 2)英国のサポート(仏牽制、バルチック艦隊の疲弊) 3)米国のタイムリーな講和 4)前線部隊の活躍 等が挙げられる。
英国や米国のサポートが無ければ勝ち目等なかった筈である。
太平洋戦争は大国のサポートも無く、その列強米英を相手に戦ったのである。日露戦争には教訓とすべき点が多々あった筈であるが勝利の神話のみが語り継がれた。この戦争を克明に分析すればあの愚かな太平洋戦争など出来ない筈である。

日露戦争の結果はアジア人達を奮い立たせた。インドのガンジーが解放への戦いに民衆を立ち上がらせたのはポーツマス講和会議の翌年であり、中国の孫文始め後の辛亥革命の担い手の多くが日本留学生として滞在し清朝を打倒して新中国建設に燃えていた。日本人の中には彼等を熱心に支援する人もいたらしいが、日本政府は突然中国人排斥の愚挙に出たのである。その後孫文が臨時大総統となって中華民国政府が出来たが当時の対応を誤って居なければ,その後の日中関係は大きく変わっていた可能性が強い。
もう一つはベトナムである。フランスの植民地であったベトナムはトンキン湾に寄港した日本海海戦に望むロシアのバルチック艦隊を見て驚愕したが日本がこれを打ち破ったと知って大きなインパクトを受けた。その前から密かに独立運動を画策し維新会(後の越南光復会)を作って居たが、その中心人物が来日し、日本の助力を期待して多くのベトナム人を留学生として呼び寄せた。武器より人材育成が先決との助言をえて、2百人を超える留学生が勉学に励んでいたという。ところが1907年日仏協約を結んだ政府は仏政府の要請でベトナム人を追放してしまった。
ロシアに勝利し折角アジアの中心的な存在として米欧先進国と対等に交渉できる立場に成ったにも拘らず逆にアジア人の独立心を叩き潰す存在になってしまったのである。
福沢諭吉も盛んに唱えた「脱亜入欧」、アジア蔑視の考えが根底にあり、アジア人の尊敬を中々克ち得ない理由もこの辺にある様な気がする。

日露戦争に勝利した日本は今後「大日本主義」か「小日本主義」で行くかの進路の選択を求められた。
資源が乏しい国力貧弱な日本の活きる道は明白であったが、思わぬ戦勝が日本人を狂わせ身分不相応な大国主義を選択してしまった。神国日本の皇国史観に我を忘れたとしか言いようがない選択である。
日露戦争を厳しく検証すればそのような選択は無かった筈であるが戦争責任者が叙勲の甘い汁に酔い痴れて後は野となれ山となれになってしまったのである。

昭和天皇の末弟で歴史学者であった三笠宮崇仁氏は陸軍大学時代に受けた戦史講義の感想として、「ロシアが降伏したのは軍事的に敗れたのではなく、国内で政治的混乱が起こったからでした。それを日本軍の力が強かったから相手が負けたとだと錯覚したのです。そしてその錯覚が昭和の時代まで続いたのですから恐ろしい事でした。」と述べている。同じ講義を受けた陸軍大学生が太平洋戦争のブレーキ役どころか推進者になってしまったのである。



戦争責任…(7) 太平洋戦争 に続く
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