追憶の彼方。

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戦争責任・最終回―1

2021年08月09日 | 政治・経済
戦争責任・最終回―1
日中戦争は、ドイツの調停などにより和平のチャンスがあったにも拘らず、南京占領等の先勝ムードに酔いしれ、杉山元陸相を中心に中国側の一時停戦の提案を拒否し講和条件を次々釣り挙げた為、蒋介石は和平交渉を打ち切り、対日徹底抗戦に舵を切った。首都南京で繰り広げられた日本軍による残虐行為が中国人民の抗日運動に火をつけ、ゲリラ活動等の抵抗も一段と激しさを増し、日本は泥沼に嵌まり込む事態となった。米・英が中国での自国権益を守る為、中国への軍需物資の供給等バックアップ体制を強化した事も日中戦争の長期化に拍車をかける事になった。
石原莞爾参謀本部作戦部長の「対中戦争不拡大路線」に乗っていた近衛首相も陸軍強硬派(杉山元・陸相、武藤章・参謀本部作戦課長、土肥原賢二・奉天特務機関長、田中新一・陸軍省軍事課長)の強硬路線に腰砕けとなって、拡大路線に舵を切ったが、対中和平も思うように進まず、無責任にも政権を放り投げてしまった。日中戦争の長期化によって、日本は国家を破滅させることになった太平洋戦争にのめり込む事となる。衆望を担って登場した筈の近衛と陸軍強硬派4人の責任は極めて重いと言える。
この日中戦争を太平洋戦争に拡大させたのは、軍事官僚や外務官僚の“何とかなるさ”と言う根拠無き希望的観測による見通しの甘さと戦略の欠如にあるが、それらは日独伊三国同盟の締結とフランス領インドシナ(現ベトナム)への日本軍の進駐という暴挙に繋がった。所謂1940年の北部仏印進駐と、1941年の南部仏印進駐である。

元々ドイツ・ヒトラーの誘いで日本とドイツの間には「日独防共協定」が締結されていたが、ドイツ側は彼等の目論を達成する為、イタリーを加えた3国で、敵対・対象国としてロシアに英仏を加え、軍事同盟化するよう申し入れして来たのである。これが太平洋戦争の大きな契機となった「三国同盟である」。ヒトラーの目論見はチェコ、オーストリア併合に当たりソ連、英国の干渉を排除する為、日本を利用する事にあった。ヒトラーは「日本人は想像力の欠如した劣等民族である、但し小器用、小利口なので自国の手先として使うには打って付けだ」と嘯いていたと言われている。
陸軍は中国の後ろにいるロシアや米英を牽制する為に同盟は有効と判断し賛成したが、条約締結は米英を敵に回す事になり、得策ではないと待ったをかけたのが「海軍大臣・米内光政、次官・山本五十六、海軍軍務局長・井上成美」の3人である。この「条約反対海軍3羽ガラス」の活躍で日本中に「陸軍悪玉、海軍善玉」の虚像が出来上がったが、この三人の考え方は海軍の中でも特異なものであった。海軍内で隠然たる勢力を誇っていた軍令部長「伏見宮博恭王」もドイツ留学組で、海軍自体もドイツ傾斜を強めつつあったのである。
三国同盟は昭和天皇の反対もあり締結が見送られてきたが1940年フランスがドイツに敗北すると、陸軍を中心として、「バスに乗り遅れるな」の大きな掛け声で、三国同盟締結論が再び盛り上がった。
陸軍は昭和天皇が理想の軍人と評価し、推挙した親英米派で海軍出身の【米内内閣】の倒閣に動き、「陸軍の総意」として陸軍参謀総長の閑院宮載仁親王を通じて畑・陸相を辞職させた為、米内は後任の陸相を求めたが陸軍はこれを拒絶、軍部大臣現役武官制により組閣不能となり、米内内閣は総辞職せざるを得なくなった。これを受けて第2次近衛内閣が成立した。陸軍は独伊との政治的結束などを要求する「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」案を提出し、近衛もこれを承認した為、三国同盟締結の基盤が出来上がった。近衛内閣には陸相に東条英機、外相として松岡洋右が入閣したが、松岡は日・独・伊にソ連を加えた4か国協商を主張し、これにより米国に譲歩を迫る事が出来ると独りよがりの考えで対英同盟を、対米三国同盟に変質させてしまったのである。(ソ連を入れることはヒトラーの反対で成功しなかった。)
松岡の判断を狂わせたのは大島浩・駐独大使、白鳥敏夫駐伊大使の国際情勢を見誤った情報に依る処が大きい。この二人の外交官を含め軍部・外務官僚の中枢はドイツ留学組が占め、ドイツを過大評価する傾向が強く、一方米英駐在経験を持つ者が少く、正確な情報に基ずく米国の評価が出来ていなかったことが、間違った方向に歩ませることになった。ヒトラー・ナチスを嫌うルーズベルト大統領を中心とするアメリカ政府の動向を見誤り、ドイツの英本土上陸と3国同盟により米国は孤立し、優位に立てると言う極めて独りよがりの甘い見通しを立てていた。しかしこの筋書きはドイツが英制圧に難渋し、対ソ戦重視への方向転換し始めた事で瓦解し始めていたことを大島や白鳥は全く把握していなかったのである。慎重であった海軍も及川海軍大臣、伏見宮軍令部総長等が陸軍に対する対抗心や世論に迎合して賛成に転じていた。
1940年9月締結の三国同盟はアメリカを牽制するどころか、逆にアメリカは日本を枢軸国の一員として敵視し、欧米の【中国援助ルート …ベトナム→→中国(雲南・重慶)】を遮断する為、日本が北部仏印(ベトナム北部)に進駐したことも契機となって、屑鉄,銅、ニッケルや工作機械の重要物資の対日輸出の全面禁止に走らせることになった。
太平洋戦争の原因の一つとなった三国同盟締結の重大責任者は近衛・松岡・白鳥・大島の4人である。又軍の要職に居た陸軍参謀総長閑院宮載仁親王、及び海軍軍令部総長伏見宮の皇族軍人の責任も極めて大きいと言わねばならない。
1941年4月、日本は日ソ中立条約を締結したが、6月ドイツはソ連侵攻を開始しており、この時点で3国同盟からの脱退、米・英・中国との関係を見直す最後のチャンスであった。しかし日本は逆にもう一つ大きな過ちを犯した。1941年7月、軍令部総長・永野修身を中心に海軍主導によるオランダ領インドネシアやマレー半島を確保しようする南部仏印(ベトナム南部)進駐である。石油や鉱物資源確保が狙いであったが、これを強行すればアメリカは石油禁輸に踏み切る可能性が大きいと言う野村駐米大使の進言を軽視し、進駐に伴う国策要綱には「対英米戦も辞さず」の文言迄盛り込まれていた。太平洋戦争が始まる直前、陸・海軍事務方により策定された国力判断では輸入が途絶えた場合戦闘能力は精々1年しか維持できないと言うものであった。対米比、鉄鋼生産量は1対24、石炭算出1対12、石油精製1対無限大、航空機生産1対8,等国力差は歴然という報告がなされていた。
日米開戦回避の為、近衛内閣は野村駐米大使、ルーズベルト大統領はハル国務長官を代表に1941年4月から50回に亙る交渉を続けていた。日本の立場は陸軍を中心に「満州国は日本の多くの国費と血で勝ち取った生命線、放棄することはあり得ない」という事であり、アメリカは、日本軍の中国・北部仏印からの全面撤退を絶対条件とし、防共駐兵と満州国については条件をつけて認めようというものであった。満州国は交渉対象にし、アメリカの条件を受け入れれば国家破滅への道は避けることが出来たのである。しかし国際情勢や国力、勝算の真剣な検討も無いまま7月28日南部仏印進駐は強行されたが、アメリカにとってフィリピン、イギリスはマレー半島とシンガポール、オランダはインドネシア等各国の権益に大きな脅威となる為、日米交渉は完全に暗礁に乗り上げた。案の定米国は7月25日の在米日本資産の凍結に続き、8月1日対日石油禁輸を発表した。近衛は松岡を更迭しルーズベルト大統領との直接交渉に乗り出し、内閣の一部には中国からの撤兵を実行して日米交渉を再開すべしという意見もあったが、東条陸相が軍の士気が落ちると猛反対し、ついに近衛内閣は閣内不一致で辞任、天皇側近の木戸幸一内大臣の推挙で10月18日東条英機内閣に替わった。木戸は東条に開戦方針の白紙還元が天皇の意思だと伝え、東条は対米穏健派の東郷外相に、自らも陸相・内相を兼務し開戦決定の見直し作業を始めたが、参謀総長杉山元、次長の塚田攻、作戦部長・田中新一、作戦課長・服部卓四郎、兵站班長・辻正信、陸軍省軍務課長・佐藤賢了等強硬派が同意せず、結局11月5日の御前会議で、11月末までに日米交渉がまとまらない場合は開戦に踏み切ることを決定した。服部・辻コンビは陸軍中央の反対を無視し、2万人近い死傷者を出す甚大な被害を被った【ノモハン事件】を起こした張本人であり、田中は盧溝橋事件を拡大させた人物であるが、これらいわく付きの人物が陸軍の中枢を占め対米強硬路線を主張していたのである。東条なら陸軍を抑えられるとの木戸の読み間違い、大きな誤算であった。 11月26日、アメリカ国務長官ハルは、日米交渉に於いてアメリカ側の提案を示した所謂「ハル・ノート」は、日本にとって厳しい内容であった。【中国・仏印から日本軍の撤退、三国同盟の否認、汪兆銘政府の不支持】を内容とする【ハル=ノート】は、アメリカ側は最終提案とはいわず、交渉の素材としての一提案にすぎないと伝えたが、日本側はこれを最後通告と受け止め、東郷茂徳外相はもはや手の打ちようが無い、日米交渉打ち切りを決定した。12月1日に御前会議が開催され、アメリカ・イギリス・オランダに対する開戦を決定、翌2日に統帥部はすでに準備を整えていた陸海軍司令官に、12月8日開戦を意味する「ニイタカヤマノボレ」の電報を打電した。アメリカなどによる経済封鎖によって鉄、石油などの資源が入ってこなくなり、特に石油備蓄は後最大2年分しかない。それを打開するにはボルネオ、スマトラなどの油田を獲得するしかない。東南アジアへの海軍による武力進出はアメリカ海軍に妨害される恐れがある、それを事前に排除するためにハワイのアメリカ海軍基地を破壊しておく必要がある、というものだった。この戦略は、連合艦隊司令長官山本五十六がすでに1939年9月以来、検討を重ねていた。山本はアメリカとの戦争はできる限り避けなければならないが、開戦となればハワイ奇襲しか勝算はないと考えていた。しかし、よく知られるように山本は戦えるのは2年間であり、それ以上戦うことになれば敗戦となるだろうと予測、玉砕戦法に出たのである。この際の対米通告は現地大使館の不手際で攻撃開始後となり「卑怯な日本人」の汚名を残す事となった。
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