今日は野口晴哉の全生について論じたいと思います。野口先生は、社団法人整体協会の創始者で、整体の生みの親です。戦前の話ですが、当時いろいろあった療術を、体系的にまとめたのは野口先生です。今では、整体といってもいろいろな流派がありますが、六十年くらい前は、整体といえば野口整体をさしていました。
「エネルギーを使い切る」
野口先生の発想は、現代の健康観や健康法とはずいぶん違います。ふつう健康法というと、体を静かに休めるというのが第一ですね。
そういうものは、野口晴哉の健康観にはないのです。何をやるにつけ、全精力を発揮し、そうすることで、再びエネルギーが戻ってくるというのです。
その例として示されたのが、森のダニです。
森のダニは、木の枝に乗って、木の下に動物が通りかかるのをずっと待ち構えています。
動物が来ると、木から飛び降りて動物につかまり、血をすうわけです。
それでお腹いっぱいになったら、動物から離れて地面に降りる。そこで、また、とことこと木に登る。
ダニにとって、木に登るのは大変なエネルギーを必要とします。木の枝に着く頃には、ほとんどエネルギーを消耗しています。もう腹ペコ。
ほとんど枯渇しそうなエネルギー状態の中で、辛抱強く動物が来るのを待ちます。
そして、動物が来ると木から飛び降りる。血をすったら地面に降りてまた木に登る。この繰り返しがダニの一生です。
もし木から下りたときに、うまく動物につかまれなかったら、死ぬだけです。
* *
何を言いたいのかというと、事をなすのに全精力を注ぐダニの姿こそ、人間が学ぶべきだということですね。
充電式の電池がありますよね。あれは、完全に放電してから充電するのがいいんですね。そうすれば、かなり長い間使えます。
ところが、ちょっと使ったぐらいで充電を繰り返していくと、だんだんキャパシティーが落ちてきます。人間もそんなもんかもしれません。
実際、野口先生の生涯もそのとおりでした。睡眠時間は3時間程度、あとは働く。それを一生涯通されました。亡くなる直前まで、整体指導をされていました。
「全力」
野口先生が全力」というテーマで、短い文章を書いておられますので、紹介しましょう。
「人は、その精力を集中することによって、平素できないことを遣り遂げることがしばしばある。
事を起こし、事を運び、この世に新しいものが産れるということの背後には、人の精力集中があることは見逃せない。
精力を集中して事を為すということに、人は快感を生じる。
それ故、疲れるとか損得を口にする前に、深い満足がある。
精力集中の密度の足りなかった人は疲れたり悔いはあるが、全力を集中した人には悦びと満足がある。
その全力を集中するのに妨げとなる心や体をもっている人や、いろいろの事情で全力を発揮できなかった人は、疲れ、悔い、又病む。
健康といいうことは、薬を飲んだり摂生したりすることによって得られるものではない。
その為すことに全力を集中し、どんなことにも疲れず、悔いず、振り返って満足できるように生きることに健康はあるといえる」――野口晴哉『偶感集』より
「全生」
人間、50近くなれば、常に死というものを意識するようになります。
野口先生は「全生」という言葉を用います。
「生きていることは死に向かって走っている車の如きもので、その目的に到着することが早いのがよいのか、遅いのがよいのか判らない。しかし、ともかく進み続けていることは確かである。
一日生きたということは、一日死んだということになる。
未だ死ななかった人は全くいなかったということだけは確かであるが、その生の一瞬を死に向けるか生に向けるかといえば、生きている限り生に向かうことが正しい。
生の一瞬を死に向ければ、人は息しながら、毎秒毎に死んでいることになる。
生に向けるとは何か、死に向けるとは何か、この解明こそ全生のあげて為すことである。
溌剌と生くる者にのみ深い眠りがある。
生ききった者にだけ安らかな死がある」
『偶感集』より
「疲労とは」
人間が疲労を感じるときは、多くの場合、ある部分だけが疲れています。
たとえば、オペレーターのような人は、目とか手首がものすごく疲れます。けれども、ほかの部分は疲れていません。それでも、疲労を感じるように体はできています。
疲労が軽いうちは、どこが疲れているかはっきりわかります。「ああ、目が疲れたな」とか「手首が痛いなあ」といったようにです。このとき、そこを休めれば回復し、さらに強くなります。
ところが、無理をして使い続けていくと、だんだん鈍くなって疲労がわからなくなるのです。
すると、体はシステムでできていますから、手首をかばうように肘や肩で負担を分担するようになります。さらに、疲労を無視していくと、首や腰で負担をかばおうとします。
そうなると、全身に疲労が伝播して、どこを調整すればいいのか、体自身がわからなくなるのです。ここまでくると、相当危険な状態といえます。
本来なら、人間の体は、十分に使って十分に休めることができれば、力を増すようにできているのです。
多くの場合、力がダウンするのは、休め方が下手だからです。腕を使ったら腕を集中的に休める。目を使ったら、目の系統を徹底的に休めるようにすれば、目はますます丈夫になり、ますますよく見えるようになるはずなのです。
「毎日毎日、一瞬一瞬をもてる力を十全に発揮し、疲れきるまで生ききるべきなのです。そして、くたびれたら眠るのです。そのときの眠りは真に気持ちのよい、とろけるようなものでしょう」岡島瑞徳『元気が出る気と手当ての本』
たぶん、理論的には、これまで書いた内容についてご理解はいただけると思うのです。しかし、このような思想を実際に実行するとなると、難しい面もあります。
そもそも、すでにくたびれて壊れてしまっている人には、これを実行するのもたいへんです。
そのためには、よい指導者について、正しい生活方法を学ぶことが安全ですし、効果があります。
最近、私のまわりでは、体の問題とか健康問題に関心をもつ人がたいへん多くなり、相談される機会が増えてきました。それで、今日は、そのことを書く気になりました。
昨日書いた内容なども、基本的なことですが、案外大事なのです。クーラーの冷風に直接当たらないようにするといったことは、常識だと思いますが、それで心臓発作を防げる可能性があるわけです。そういった基本知識は是非おさえておきたいものです。
「エネルギーを使い切る」
野口先生の発想は、現代の健康観や健康法とはずいぶん違います。ふつう健康法というと、体を静かに休めるというのが第一ですね。
そういうものは、野口晴哉の健康観にはないのです。何をやるにつけ、全精力を発揮し、そうすることで、再びエネルギーが戻ってくるというのです。
その例として示されたのが、森のダニです。
森のダニは、木の枝に乗って、木の下に動物が通りかかるのをずっと待ち構えています。
動物が来ると、木から飛び降りて動物につかまり、血をすうわけです。
それでお腹いっぱいになったら、動物から離れて地面に降りる。そこで、また、とことこと木に登る。
ダニにとって、木に登るのは大変なエネルギーを必要とします。木の枝に着く頃には、ほとんどエネルギーを消耗しています。もう腹ペコ。
ほとんど枯渇しそうなエネルギー状態の中で、辛抱強く動物が来るのを待ちます。
そして、動物が来ると木から飛び降りる。血をすったら地面に降りてまた木に登る。この繰り返しがダニの一生です。
もし木から下りたときに、うまく動物につかまれなかったら、死ぬだけです。
* *
何を言いたいのかというと、事をなすのに全精力を注ぐダニの姿こそ、人間が学ぶべきだということですね。
充電式の電池がありますよね。あれは、完全に放電してから充電するのがいいんですね。そうすれば、かなり長い間使えます。
ところが、ちょっと使ったぐらいで充電を繰り返していくと、だんだんキャパシティーが落ちてきます。人間もそんなもんかもしれません。
実際、野口先生の生涯もそのとおりでした。睡眠時間は3時間程度、あとは働く。それを一生涯通されました。亡くなる直前まで、整体指導をされていました。
「全力」
野口先生が全力」というテーマで、短い文章を書いておられますので、紹介しましょう。
「人は、その精力を集中することによって、平素できないことを遣り遂げることがしばしばある。
事を起こし、事を運び、この世に新しいものが産れるということの背後には、人の精力集中があることは見逃せない。
精力を集中して事を為すということに、人は快感を生じる。
それ故、疲れるとか損得を口にする前に、深い満足がある。
精力集中の密度の足りなかった人は疲れたり悔いはあるが、全力を集中した人には悦びと満足がある。
その全力を集中するのに妨げとなる心や体をもっている人や、いろいろの事情で全力を発揮できなかった人は、疲れ、悔い、又病む。
健康といいうことは、薬を飲んだり摂生したりすることによって得られるものではない。
その為すことに全力を集中し、どんなことにも疲れず、悔いず、振り返って満足できるように生きることに健康はあるといえる」――野口晴哉『偶感集』より
「全生」
人間、50近くなれば、常に死というものを意識するようになります。
野口先生は「全生」という言葉を用います。
「生きていることは死に向かって走っている車の如きもので、その目的に到着することが早いのがよいのか、遅いのがよいのか判らない。しかし、ともかく進み続けていることは確かである。
一日生きたということは、一日死んだということになる。
未だ死ななかった人は全くいなかったということだけは確かであるが、その生の一瞬を死に向けるか生に向けるかといえば、生きている限り生に向かうことが正しい。
生の一瞬を死に向ければ、人は息しながら、毎秒毎に死んでいることになる。
生に向けるとは何か、死に向けるとは何か、この解明こそ全生のあげて為すことである。
溌剌と生くる者にのみ深い眠りがある。
生ききった者にだけ安らかな死がある」
『偶感集』より
「疲労とは」
人間が疲労を感じるときは、多くの場合、ある部分だけが疲れています。
たとえば、オペレーターのような人は、目とか手首がものすごく疲れます。けれども、ほかの部分は疲れていません。それでも、疲労を感じるように体はできています。
疲労が軽いうちは、どこが疲れているかはっきりわかります。「ああ、目が疲れたな」とか「手首が痛いなあ」といったようにです。このとき、そこを休めれば回復し、さらに強くなります。
ところが、無理をして使い続けていくと、だんだん鈍くなって疲労がわからなくなるのです。
すると、体はシステムでできていますから、手首をかばうように肘や肩で負担を分担するようになります。さらに、疲労を無視していくと、首や腰で負担をかばおうとします。
そうなると、全身に疲労が伝播して、どこを調整すればいいのか、体自身がわからなくなるのです。ここまでくると、相当危険な状態といえます。
本来なら、人間の体は、十分に使って十分に休めることができれば、力を増すようにできているのです。
多くの場合、力がダウンするのは、休め方が下手だからです。腕を使ったら腕を集中的に休める。目を使ったら、目の系統を徹底的に休めるようにすれば、目はますます丈夫になり、ますますよく見えるようになるはずなのです。
「毎日毎日、一瞬一瞬をもてる力を十全に発揮し、疲れきるまで生ききるべきなのです。そして、くたびれたら眠るのです。そのときの眠りは真に気持ちのよい、とろけるようなものでしょう」岡島瑞徳『元気が出る気と手当ての本』
たぶん、理論的には、これまで書いた内容についてご理解はいただけると思うのです。しかし、このような思想を実際に実行するとなると、難しい面もあります。
そもそも、すでにくたびれて壊れてしまっている人には、これを実行するのもたいへんです。
そのためには、よい指導者について、正しい生活方法を学ぶことが安全ですし、効果があります。
最近、私のまわりでは、体の問題とか健康問題に関心をもつ人がたいへん多くなり、相談される機会が増えてきました。それで、今日は、そのことを書く気になりました。
昨日書いた内容なども、基本的なことですが、案外大事なのです。クーラーの冷風に直接当たらないようにするといったことは、常識だと思いますが、それで心臓発作を防げる可能性があるわけです。そういった基本知識は是非おさえておきたいものです。