障害・障碍・しょうがい で、「障害」という表記の「害」という文字は、けして障害をもつ人に対してかかっているものではない、という視点で表記の問題にふれました。
では、なぜ、「害」という文字が、障害をもつ人にかかると変更される動きがあるのか。
これは、言葉がどうの、ということではなく、障害をもつ人が日常の生活の中で他者から向けられている「視線」がキーになっているのではないかと思います。
娘を連れて歩いていると、とても日常的に「じろじろ見られる」ことが多いです。いわゆる大人の中では「ダウン症とその外見」はすでに常識化しているところがあるのではないかと思います。それでも大人の中にも存在する。
具体例をひとつ挙げますが。駅のベンチに座っているときに、隣に座った20代の女性が異質なものを見る目つきで、すぐそばにいるにも関わらず、娘を眺め回した。どうすりゃいいんだ、という感覚を当然持たされます。「ダウン症児・者を見たことがないんですか」と言ってやろうかとさえ思いました。
無遠慮な子どもの視線は時々痛烈です。異質なものを見る目つきで上から下まで眺め回すように見る子どもは少なくありません。その子どもの視線におたおたする保護者には、正直同情します。対応は難しいだろうと思う。しかし、子どもと一緒に同じ視線を向けてくることもあります。そんなとき、こちらから見える景色は、「複数の人間に同様の視線を一斉に投げられる状態」になります。これはもう、慣れるしかないことです。
この、異質なものを見る目つきで眺め回されること、このことは「わたしは害ですか?」と問う感覚が生まれる一つの要素かもしれない、とも思うのです。
ある友人が言ってたことですが。
交通事故で脊椎損傷者になり、下半身の機能の障害が決定したときに、その事実は衝撃だったけれど、リハビリセンターで車椅子を自在に扱う人たちの自由な姿に影響され、車椅子を駆使するということに慣れていったと。
そしてそのことで得た「自由」と共に外出、デパートに行ったときに、混んでいるところで、中年の女性にある視線を投げられたと。
「なんでこんなところに来るんだ」「邪魔だ」と、そうその視線は自分にその感情を放っていた、と言います。そのときに自分にとっての「障害」が決定されたような気がした、と。
脊椎損傷者になったら、気味が悪いほど、自分のまわりに「いい人」が増えた。しかしその「いい人」たちは、その人たちの自由であるテリトリーを自分が侵さない範囲でしか「いい人」として存在しないのではないか、と。そんな感覚を持つようになってしまった、と。
個人の談、なのかもしれない。でも、とても示唆に充ちている、と、わたしは位置づけています。実際「その人たちの自由であるテリトリーを自分たちが侵さない範囲」というのは、わたしも感じたことがあります。
こうした問題は、障害をもつ人の「日常的な慣れと、感覚の耐性」に押しつけられているのが現実です。
「害」という文字が与えるもの。それは文字表記の問題ではない。社会を構成する人々のひとりひとりがカギを握っているんではないだろうか。
表記の問題は、それを抜いては考えられないことであるし、「害」という文字表記を変更しようという動きは、文字表記に関してこだわっているのではなく、人に再考を求めているものなのだと、わたしは思いたい。
ただ、それは、文字表記の変更に頼ってはいけないんだ。そうわたしは思うのですよね。
また、「障害」という表記をすることに対して、責めるものであってもおかしいと思う。
その上で、もしも文字表記の変更というものが、こうしたことに影響していく力をもつのだという説得力をわたしが感じることがあったならば、わたしは文字表記を変更していくことに対して吝かではありません。
では、なぜ、「害」という文字が、障害をもつ人にかかると変更される動きがあるのか。
これは、言葉がどうの、ということではなく、障害をもつ人が日常の生活の中で他者から向けられている「視線」がキーになっているのではないかと思います。
娘を連れて歩いていると、とても日常的に「じろじろ見られる」ことが多いです。いわゆる大人の中では「ダウン症とその外見」はすでに常識化しているところがあるのではないかと思います。それでも大人の中にも存在する。
具体例をひとつ挙げますが。駅のベンチに座っているときに、隣に座った20代の女性が異質なものを見る目つきで、すぐそばにいるにも関わらず、娘を眺め回した。どうすりゃいいんだ、という感覚を当然持たされます。「ダウン症児・者を見たことがないんですか」と言ってやろうかとさえ思いました。
無遠慮な子どもの視線は時々痛烈です。異質なものを見る目つきで上から下まで眺め回すように見る子どもは少なくありません。その子どもの視線におたおたする保護者には、正直同情します。対応は難しいだろうと思う。しかし、子どもと一緒に同じ視線を向けてくることもあります。そんなとき、こちらから見える景色は、「複数の人間に同様の視線を一斉に投げられる状態」になります。これはもう、慣れるしかないことです。
この、異質なものを見る目つきで眺め回されること、このことは「わたしは害ですか?」と問う感覚が生まれる一つの要素かもしれない、とも思うのです。
ある友人が言ってたことですが。
交通事故で脊椎損傷者になり、下半身の機能の障害が決定したときに、その事実は衝撃だったけれど、リハビリセンターで車椅子を自在に扱う人たちの自由な姿に影響され、車椅子を駆使するということに慣れていったと。
そしてそのことで得た「自由」と共に外出、デパートに行ったときに、混んでいるところで、中年の女性にある視線を投げられたと。
「なんでこんなところに来るんだ」「邪魔だ」と、そうその視線は自分にその感情を放っていた、と言います。そのときに自分にとっての「障害」が決定されたような気がした、と。
脊椎損傷者になったら、気味が悪いほど、自分のまわりに「いい人」が増えた。しかしその「いい人」たちは、その人たちの自由であるテリトリーを自分が侵さない範囲でしか「いい人」として存在しないのではないか、と。そんな感覚を持つようになってしまった、と。
個人の談、なのかもしれない。でも、とても示唆に充ちている、と、わたしは位置づけています。実際「その人たちの自由であるテリトリーを自分たちが侵さない範囲」というのは、わたしも感じたことがあります。
こうした問題は、障害をもつ人の「日常的な慣れと、感覚の耐性」に押しつけられているのが現実です。
「害」という文字が与えるもの。それは文字表記の問題ではない。社会を構成する人々のひとりひとりがカギを握っているんではないだろうか。
表記の問題は、それを抜いては考えられないことであるし、「害」という文字表記を変更しようという動きは、文字表記に関してこだわっているのではなく、人に再考を求めているものなのだと、わたしは思いたい。
ただ、それは、文字表記の変更に頼ってはいけないんだ。そうわたしは思うのですよね。
また、「障害」という表記をすることに対して、責めるものであってもおかしいと思う。
その上で、もしも文字表記の変更というものが、こうしたことに影響していく力をもつのだという説得力をわたしが感じることがあったならば、わたしは文字表記を変更していくことに対して吝かではありません。