gooの編集画面を開き、アクセス解析を見る。gooのアクセス解析は日々の「閲覧数」「訪問者数」が時刻ごとに表示され、「ページごとアクセス数」「アクセス元URL」「検索ワード」「プラウザ」のそれぞれ上位20件が表示される。解析として欲しい機能はこれで充分、あえて言えば「プラウザ」はわたしにとってはたいして必要が無い。
更新を滞らせているときに、「ページごとアクセス数」と「検索ワード」の存在の価値はけっこう大きい。過去記事となっているもので「生き続ける」ものが一目でわかる。
この「上位20件」の中で、更新しようが更新を滞らせようが、常に入ってくるのが「V602SH」関連。すでに過去機種となっているこの携帯に関しての情報が欲しい人が日々、こんなにいることに驚かされる。まあ時間と共に必要の無くなっていく記事群の代表的なものだろうと思う。
他に、常時入ってくるのは以下のもの。
常時、ではないが、時々、この「20件」に入ってくるものは、やはり「障害系」の記事が多い。更新時点でやたらにアクセス数を稼ぐ「ブログ論」的なものは、日がたってしまえばほとんど入ってこないのはおもしろいといえばおもしろい。瞬発的な力、というものなんでしょう。わたしとしては「ブログ論を語る」というよりは、ブログという媒体にふれることに関しての「思いつき日記」のようなものなので、この現象に対しては特に異論無し。
ニュースサイトに取り上げられたものでアクセスされるものとして生き続けるのは「駄文にゅうす」に取り上げられたもの。このニュースサイトの過去ログをチェックする層の厚さのようなものを感じる現象。
「ページごとアクセス数」、この欄にあがってくる過去記事を、時々再読。
これは「いい記事」です。なぜ「いい記事」と呼ぶか。それは毎年毎年、秋から暮れにかけて、そして5月の連休前後に、必ず誰かから持ち込まれる「相談」に、常に答え続けている内容だからです。
毎年毎年、聞く相手は変わる、それでもわたしの答え、意図する内容はずっと同じ。相手の個性、子どもの個性によって細かな内容は変わりますが、ずっと変わらない一貫した主旨がこの記事にはあります。
わたしにとって、大きな意味のある「いい記事」です。
更新を滞らせているときに、「ページごとアクセス数」と「検索ワード」の存在の価値はけっこう大きい。過去記事となっているもので「生き続ける」ものが一目でわかる。
この「上位20件」の中で、更新しようが更新を滞らせようが、常に入ってくるのが「V602SH」関連。すでに過去機種となっているこの携帯に関しての情報が欲しい人が日々、こんなにいることに驚かされる。まあ時間と共に必要の無くなっていく記事群の代表的なものだろうと思う。
他に、常時入ってくるのは以下のもの。
「たったひとつのたからもの」:感想どれも「伝えたい」という主旨がわたしにとってははっきりしているものばかりなので、常時アクセスがあるのは光栄。
「たったひとつのたからもの」:障害児が一人で歩く光景
宛名の無い手紙
常時、ではないが、時々、この「20件」に入ってくるものは、やはり「障害系」の記事が多い。更新時点でやたらにアクセス数を稼ぐ「ブログ論」的なものは、日がたってしまえばほとんど入ってこないのはおもしろいといえばおもしろい。瞬発的な力、というものなんでしょう。わたしとしては「ブログ論を語る」というよりは、ブログという媒体にふれることに関しての「思いつき日記」のようなものなので、この現象に対しては特に異論無し。
ニュースサイトに取り上げられたものでアクセスされるものとして生き続けるのは「駄文にゅうす」に取り上げられたもの。このニュースサイトの過去ログをチェックする層の厚さのようなものを感じる現象。
「ページごとアクセス数」、この欄にあがってくる過去記事を、時々再読。
知的に障害をもつ子を「育てる」ということこの記事は、毎日ではないが、かなり高い頻度でこの「上位20件」に上がる。
これは「いい記事」です。なぜ「いい記事」と呼ぶか。それは毎年毎年、秋から暮れにかけて、そして5月の連休前後に、必ず誰かから持ち込まれる「相談」に、常に答え続けている内容だからです。
毎年毎年、聞く相手は変わる、それでもわたしの答え、意図する内容はずっと同じ。相手の個性、子どもの個性によって細かな内容は変わりますが、ずっと変わらない一貫した主旨がこの記事にはあります。
わたしにとって、大きな意味のある「いい記事」です。