S嬢のPC日記

2004年から2007年まで更新を続けていました。
現在ははてなで活動しています。

「死別」と「日常」と

2006年02月06日 | つぶやき
 誰かと「死別する」、ということは生きていく上で避けられない。人間関係というものは、相手が生きている限り、何らかの発展の機会を持つ可能性がある。それがたとえトラブルであったとしても。
しかし「死別」というものは、相手の存在を「失う」ということを認識していく過程が始まるということ。

 「失う」ということがつらい相手と「死別する」ということは、深い悲しみを伴うことだと思う。それに加え、死別する相手が自分の日常に組み込まれた相手である場合は、相手の死、という事実は、自分に「事後の日常」を形成していかなくてはならない必要性が生まれるということ。

 2006年1月25日、午前7時40分、姑逝去。

 義母を失って明日で二週間になる。忌引きで欠勤していた夫は今日から職場に復帰し、家は日常のモードになる。
夫を送り出し、子どもたちを送り出し、わたしは自分の一日の予定を考える「さあ、今日は病院には何時に行こうか」。

 病院に行っても、もうそこには義母の病室は無い。病院に行くのではなく、すでにわたしの日常は、すぐそこにある夫の実家の和室の祭壇におかれた義母の「骨」に向かい、線香をあげることになっているはずなのに、わたしの潜在的な思考はそれを認めようとしない。
義母はもういないのに、義母の病室のあったフロアに行ってみたい気さえする。
これは、存命であった頃の日常に対しての未練なんだろう。

 容態が急変し、持ち直し、悪化し、逝去。この流れの中の強く記憶に残るシーンを、いちいち反芻する時間が毎日存在する。その反芻に痛みを伴うことがわかっていても。
これは「やがて記憶が薄れていく」ことに対しての抵抗なんだろう。

 「姑の入院」という過去記事を読む。このときの入院は一週間で終わったなあと思い出しながら、更新日付を見て愕然とする。ちょうど一年後の同じ日に、容態が急変したことに気づく。

 この過去記事に出てくる「小さな畑」の跡地を整地する、春の花をそこに咲かせるために。
この場所に花が咲き乱れる頃、去年衝撃を受けたこの記事から、一年が経過する。