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竹原友徳のさすらいうどん武者修行道中記

香川でのうどん修業の後、2年間の日本一周うどん行脚の武者修行の旅を完遂!現在は京都・綾部での開店目指し奮闘中!

沖縄の心を…

2008年05月11日 | メッセージ
鹿児島から島巡りに入る前に沖縄をこよなく愛す方からこんなメールが届きました。

「島という世界にはすべてが凝縮されていると私は思います。生きること、のすべてが…」

その時はわからなかったけど今なら少しわかる気がする。
わずか二ヶ月でしたが島を巡り、様々な方と出会い感じた事を自分なりに書いてみようと思います。


沖縄入りした始めの頃、祭などを通して島の方に触れた時、島人の誇りを感じた。ヤマトの人間には負けないよ…というようなどこか一線引かれたような雰囲気があったような気がする。言葉は島人どうしだと全くわからない。ここは国が違うと思った。
それ以後、自分自身が島に馴染んできたせいなのか(顔の濃さと色の黒さのマッチングおかげか…)強く感じることはなくなった。

島を南下し八重山へ行った時にはうちなんちゅ(島人)と島ないちゃー(移住しているないちの人)との係わりが気になった。
美しい自然(しかし年々珊瑚も減り、魚も減っている)と日本という国の中にある東南アジア的な空気などに惚れてやっくる人、人、人。お金を持った人や若者、ヒッピーまで様々。
賑やかになり、新しい風が作り出すいい事もたくさんあるけれど、一方では新聞で何か事件やトラブルが起こると原因はないちゃーが多いようだ。
またないちゃーの仕業かと島人はご立腹のご様子でした。
そしてお金の価値観も都会から来る人とは違うように思う。特にハルサー(農家さん)の方はお金より生活を大事にされているようで、その方々に移住者は都会の価値観でこうしたら儲かるよなどとアドバイスされているが様子を見ているとどうも信頼されていないように見えた。
移住するという事はその土地に住むという事であり、まずはその土地の人や文化を尊重し、骨を埋める覚悟がないと島の人たちと心は繋がらないと思う。
ただ自分たちの世界で楽しむだけならそれでもいいかも知れないけれど…。
しかしそれはアジアなどでよく見かける白人が移住して、その国の文化を無視して自分たちの理想の暮らしをしているのと同じではないだろうか。
出来るだけみんなで仲良く楽しく暮らしたいですよね。

北上し宮古島に行くと目についたのが橋です。
公共工事で今は宮古島と伊良部を結ぼうとしている最中。
橋で島と島が結ばれる事は便利になるし、旅行者はドライブで行けて美しい海を楽に楽しむ事が出来る。

しかし誰でも来れるようになるだけに問題があるようです。
それを思ったのはこの連休の合間に沖縄本島北部の橋で繋がっているこうり島に行った時です。多くの人がやってきていてビーチはキャンプする人たちで溢れていた。楽しそうでいいのですが、マナーが…。安い大手スーパーで買い出しして島で遊ぶだけ遊んでゴミだけ残して帰るのはあまりに悲しい事だと思いました。なのでまずは自分自身が気をつけたい。
4年後に橋で繋がる伊良部島のその後が少し気になった。

本島に再び戻り、普天間基地をジュゴンの住む辺野古の海に移設する問題で揺れている大浦湾へ行き三線を通して平和も伝える金城師匠や海風の成田さんと出会った。
基地問題は地元の方たちも基地に依存しているため、とても複雑な経済となり難しい。
まずは基地に依存しない経済を地域で作っていく事が解決への一歩ではないかと言われてました。

そして沖縄最終日に竹富島で出会った方に薦められた「佐喜眞美術館」に行った。

佐喜真美術館は宜野湾市普天間の町のど真ん中にある事で有名な普天間基地の中に少し食い込むように建っている。
展示は40年以上沖縄戦や広島、長崎の原爆の様子を描いている丸木位里さん、俊さんや世界大戦中の画家ジョルジュ・ルオー、ケーテ・コルヴィッツなどです。
どれも戦争をイメージ出来るもので丸木さんの作品は亡くなった罪なき人々の様子を生き地獄のようにリアルに描かれ、戦争の悲惨さを写真以上に感じることができた。そしてやはり「ヌチドゥタカラ(命こそ宝)」なんだという事を改めて実感した。ちなみに中学三年生の文化祭の時の隣のクラス(学年は2クラスでした)の演劇が「ヌチドゥタカラ」ですごく良かった事を覚えています。
ルオーの作品は戦争で悪魔のようになった人々を描いたものが多く、これまた強烈なインパクトでした。

作品を通して沖縄の人たちの壮絶な人生を想像し、そしてそれを乗り越え、今は明るく気さくに暮らされているのをすごいと思った。
また改めて様々な方々の犠牲と沖縄に米軍基地があるおかげで今の日本の平和があるのだと実感し、感謝しなければならないし二度と同じ過ちを繰り返えさないように、自分なりにきちんと学び、考え、語り継ぎ伝えていこうと思った。

佐喜眞美術館の資料には太平洋戦争で日本の死者300万人、アジアで2000万人と書かれていた。日本がアジアで何をしていたのかというのもいつか知りたいと思う。

最後の夜うどん会で沖縄の人について感想を聞かれ、温かいく優しいと答えると「それは厳しい搾取や戦争という貧しく厳しい時代をみんなで助け合って生きてきたからだよ」と教えられた。
これから先に貧しい時代が来ようともみんなでなんくるないさ~って言って助け合って生きていける沖縄の人のような心豊かな人になりたい。

大変お世話になりいろいろ事を教えて下さった方々と島に心から感謝です。
これからも何度も理由をつけては沖縄に来てしまうであろうほど好きになってしまいました!

ありがとうございます!!

ほんものとは何ぞや

2008年05月09日 | メッセージ
粟国の塩工場に見学に行ったときの事です。

「粟国の塩」は全国でよく見かける人気の塩だ。
ここに訪れるまで全国にあれだけあるのだから、機械化された工場なのだろうと思っていた。

工場は粟国島の北海岸にあり、コンクリートタワーの流下式塩田が二つと大きな薪の釜が三つある。社長の小渡さんに丁寧に説明してもらい工場を案内していただいた。自分の想像とは違い、工程すべてが手作業だった。
一つ一つの作業に手間隙かかっていて職人さん技が光っていました。

小渡さんに塩についてのお話を聞かせていただきました。
小渡さんは20年以上塩の研究をされている。
粟国の塩の掲げる「いのちは海から」というのは46億年前にこの星が生まれ、やがて海ができ、微生物からスタートし、進化を続け人は誕生した。
人の体を元素まで分けるとその成分は海の成分とよく似ている。つまり海のミネラルは人の体にとって欠かせないものなのだ。
海の成分を凝縮した塩がいかに大事で必要なものなのかわかりました。

しかしただ海水を煮詰めれば塩は出来るけれど、それでは体に必要でない成分も塩に含まてしまう。それを取り除くために技術が必要なのだ。やはり職人の世界ですね。単純なもの程深いです。

そうして作られた塩はほどよいにがりを含み、体にちょうどいいものになっているそうだ。

小渡さんは最後にこう言われました。
「本物は食べた人が健康になれるものです。食に携わる者として人を思いやる心があれば自然とそういうものを作るように努力できますよね。本物は長続きします。お互いに本物を目指してがんばりましょう」と。

以前お世話になったトマト農家の識名さんも言われた
「うちのトマトはおいしいかどうかは食べた人の好みだからおいしいとは断言できないけど、体にいいことは間違いないよ」という言葉を思い出した。

うどんを食べた人に元気に、健康になってもらえるものを(そしてもちろんおいしく)目指していこうと心に誓ったのでした…

粟国の標語

2008年05月08日 | メッセージ
島を歩いているとあいさつについての何種類もの看板があります。
島の人がまず大事にしている事なのではないかと思います。

以前あるお店のオーナーさんと話した時に「最近観光客の質が落ちている」といわれました。
お店に入る時に「こんにちは~」っとまずはあいさつのはずなのに何も言わずに入って来て、写真を撮るだけとって、何も言わずに帰っていく人が最近は多いそうです。
「あいさつは人の基本だよ」
と教えていただきました。

小雨混じりの粟国の町を傘もささないで歩いていて、出会った方にあいさつすると「雨が降ってるのに大丈夫かい?」とみなさん心配してくれました。

唄うことが生きること

2008年05月05日 | メッセージ
5月4日(みどりの日、私はいつの間にか4月29日を昭和の日に乗っ取られました。)

やんばるの三線名人金城繁さんの三線歴60周年記念ライブをじっくり楽しんできました。

繁さんは現在75歳。10代の頃から三線を始め、地元の地謡(じかた、歌と演奏)などを務める。
その後30代の時に建設現場での作業中に事故で右手首を切断する。しかし三線を弾き歌うことを諦めず、独自の手法を考案し演奏活動を再び始める。
90年代以降は基地問題に対して唄三線を通して平和運動にも参加されています。
繁さんの生活は決して裕福な暮らしではなく、むしろ事故によって右手を失ったことで苦労も多いかったことと思います。しかし唄うことで出会う人たちと楽しく、心豊かに暮らされています。

繁さんの魂の演奏は胸に響き、本当に感動しました。歌詞の意味がほとんどわからないのでもっと知っていればもっと良かったなと思いました。

演奏を聞いていたおばぁのかちゃーし(踊り)もとても素敵で手からオーラがでているかのようでした。

二日間のライブはCD録音され、この秋にはCDブックとして写真集も付きで販売されるそうです。
僕の手拍子や歓声も入ってますよ!
そしてなんと2500円という安さでの販売予定。
これは買いじゃないですか~皆さん!
予約承ります。
セールスマンではありませんのでご心配なく。

水の仲間(3)

2008年04月15日 | メッセージ
一つ大事な事を書き忘れていました。

夕方うどんを作っているときに一人の女の子にこう聞かれました
「どうしてここでうどん作ってるの?」

「山城さんが呼んでくれたからだし、うどん屋さんにとって水は命だから水の事も勉強したかったから、参加させてもらってるんやで。」

すると
「そうなんだ。でもね1番大事なのは水ではなくて心だよ!」と言われました。

思わずハッとさせられました。脱帽です。
心を大事に頑張りたいです。

沖縄戦を知る

2008年03月22日 | メッセージ
3月21日
石垣島に渡る前にどうしても沖縄戦について知りたくて本島南部糸満市にある「ひめゆり平和祈念資料館」と「平和祈念公園」に行ってきました。

太平洋戦争末期沖縄は激戦地でした。
死者は民間人、米軍等含めを約24万人。
本土決戦を前にその準備の為の時間稼ぎとして米軍を沖縄に足止めさせるために県民を総動員し女性だけでなく、中学生や高校生の女の子も学徒兵として戦場に立ち、多くの命が犠牲になりました。

その当時の写真や映像を見ると思わず目を背けたくなるほど残酷で、戦争というものは恐ろしいもので美化できないものだと思う。
また今の日本ではあたりまえのように平和ですが、犠牲となった方々の命のおかげであるのだとありがたく感じました。

この平和に感謝して守り、大切にし、二度と同じ過ちを繰り返さないようにしっかり学び、語り継いでいく事が大事なのではないかと改めて思った。

手を合わせお祈りしていると上空を戦闘機が轟音をあげて飛んで行く。
沖縄は基地の問題が今なお残ってます。
平和な社会になるように自分に出来る事を考えやっていきたい。

尊尊我無

2008年03月11日 | メッセージ
「尊尊我無(トートゥガナシと読む)」
ヨロン言葉で「ありがとう」という意味。

今ある自分の命を大切にし、両親やご先祖さま、出会いなどへの深い感謝の意味をもつという。

3月10日
沖縄行きのフェリーに乗る。
ヨロン発飛行機があまりないので沖縄発の飛行機に乗るためマラソン参加者もたくさん沖縄に行くようで港には見送る人も含め、大勢で賑やかでした。
かりゆしでお世話になった方々にも見送ってもらいました。

その素朴で温かい雰囲気が礼文や小笠原を離れた時と同じように感動的で胸が熱くなりました。

思わず胸で叫ぶ
「行っ~てきま~す!また~来る~ぜ!!今度はマラソン走りに来るからなぁ~!」

短い時間でしたが奄美の島々でたくさんの方との出会いがあり、内容の濃い日々でした。
そして奄美の文化を少しでも知る事ができて良かったです。
また来ます

尊尊我無


いよいよ旅は沖縄県へと入ります。

真心が大事

2008年03月06日 | メッセージ
3月4日
13時頃沖永良部島の和泊に到着。
今日は予定がないのでゆっくりエラブ観光することにした。

島全体見渡せる展望台を目指し車を走らせる。
すると道路左手に「まごころ精糖」とい看板を発見。
一度通り過ぎたが、まごころという文字に惹かれて引き返し立ち寄る。
小さな工場と黒糖販売所。

お店に入ると黒糖と黒糖ピーナッツ、黒糖を使ったドーナツや餅が販売されていて、黒糖のパッケージには

「純黒糖」~50年前に食べたあの味が忘れられなくて…
と書かれている。
一つ試食させてもらう。
味が濃く、後味すっきりといった感じ。

工場を見学させてもらう。森田さんという方がされていて話を聞かせてくれました。

「何年されているんですか?」と尋ねる。
「4年だよ」

もう何十年もされている雰囲気があったので意外だった。

話によると森田さんは50年ほど前、徳之島の精糖工場で修業され、その後おそらく別の仕事をされ、退職後に今では少なくなったあの頃のような純粋な黒糖が食べたくなり、修業時代の様子を思い出し手作りで工場再現し、当時のようにすべて手作業で始められたそうだ。
黒糖を煮詰める釜の燃料は薪。
それだけで美味しさが違うように感じてしまうのが不思議だ。

「お茶を飲んでいきなよ」と一服させていただく。

お茶を飲んでいる時、森田さんが話してくれました。
「若い頃の苦労は買ってでもしろ、と子供の頃におじいさんやおばあさんによく教えられた。若い頃に苦労を経験しておけば年をとってからやって来る困難も楽に乗り越えられるんだよ。君もやり始めた事は最後まで貫きがんばりなさい。
目の前が炎の壁であっても思い切って飛び込んで駆け抜けろ!もたもた歩いてたら火傷しちゃからな。
そして何よりも真心が大事なんだよ。良いと思う事はして、悪い事はしないようにして自分の心を大切にしなさい。良い事をしたり、がんばったら自分だけでも自分を誉めてあげなさい。真心込めて一生懸命やれば大丈夫。真心を大切にすれば外は雨でも心はいつも日本晴れ。
年齢は70代だけど夢があるから心は30代だよ。時間でいったらまだ午前10時くらいだ。おじさんまだまだがんばるよ~!」と力強く熱く語ってくださいました。
森田さんに大事な事を学び、勇気と元気をいただきました。

森田さんの娘さんも一緒に働かれていて、ノリのいい優しい方で翌日うどん作りさせていただける事が突然決定。
出会いってわからないですね。
感謝感謝感謝です。

知覧を知る

2008年02月18日 | メッセージ
2月15日
薩摩半島の南部に位置する「知覧」という街を知ってますか?

薩摩の小京都と呼ばれ武家屋敷が立ち並び、またその中に南国の雰囲気もあり風情のある美しい街で観光地です。

しかし以前知覧の話を聞いて行きたいと思ったのはここではなく、郊外にある「平和会館」でした。

知覧は太平洋戦争末期に最南端の航空基地として「特別攻撃隊(特攻隊)」が1番多く出撃していったところなのです。

「特攻隊」は太平洋戦争末期、沖縄沖に集まっていた連合軍の軍艦に通常の弾薬を二倍以上積んだ戦闘機で捨て身の体当たり攻撃を目的としたもので、一度離陸すればあるのは「死」のみの決死隊。
特攻隊員は日本各地また朝鮮からも選ばれ年齢は17歳から20代前半の若者ばかり。
そんな「命」をかけて日本を守るため戦った若者の遺影や遺書、日記などの資料が平和会館には展示されています。

平和会館に入って最初に感じたのは遺影の写真。
となりにいた人たちがこう言いました「今の若者とは顔付きが違うね」
瞳に力があり、落ち着いた感じに見えた。
また隊員が地元の子たちと遊んだりしている写真ではいい笑顔で目前に迫った死を全然感じません。
なぜだろう…

遺書の多くには
「大日本帝国万歳」
「天皇陛下万歳」
お国のために死ぬ事ができて本望です
など書いてありますが最後は
「父上様、母上様先に徃く事をお許し下さい。心からありがとうございました。」というような感謝の言葉が書かれていました。

特攻出撃の前夜には布団の中で涙を流す若者も多くいたようですが、出撃の時は覚悟を決めて笑顔で離陸していったそうです。

遺書や日記には名誉な死を迎える事ができて光栄だとたくさん書かれていますが、ある隊員の日記には日のあたる草の上にねころんでいる時に

楽しそうな小鳥の声を聞き「俺もこんどは小鳥になるよ」

と書いてありました。
やはり平和に暮らしたいという思いのような気がします。

「命」というものがあまりに軽くなってしまう戦争というものが絶対にしてはならないというのを改めて実感しました。

親の立場の方がみるとまた違って感じるんだろうと思います。
また来たいです。

鹿児島へお越しの時は知覧にも足を運んで下さい。