鹿児島から島巡りに入る前に沖縄をこよなく愛す方からこんなメールが届きました。
「島という世界にはすべてが凝縮されていると私は思います。生きること、のすべてが…」
その時はわからなかったけど今なら少しわかる気がする。
わずか二ヶ月でしたが島を巡り、様々な方と出会い感じた事を自分なりに書いてみようと思います。
沖縄入りした始めの頃、祭などを通して島の方に触れた時、島人の誇りを感じた。ヤマトの人間には負けないよ…というようなどこか一線引かれたような雰囲気があったような気がする。言葉は島人どうしだと全くわからない。ここは国が違うと思った。
それ以後、自分自身が島に馴染んできたせいなのか(顔の濃さと色の黒さのマッチングおかげか…)強く感じることはなくなった。
島を南下し八重山へ行った時にはうちなんちゅ(島人)と島ないちゃー(移住しているないちの人)との係わりが気になった。
美しい自然(しかし年々珊瑚も減り、魚も減っている)と日本という国の中にある東南アジア的な空気などに惚れてやっくる人、人、人。お金を持った人や若者、ヒッピーまで様々。
賑やかになり、新しい風が作り出すいい事もたくさんあるけれど、一方では新聞で何か事件やトラブルが起こると原因はないちゃーが多いようだ。
またないちゃーの仕業かと島人はご立腹のご様子でした。
そしてお金の価値観も都会から来る人とは違うように思う。特にハルサー(農家さん)の方はお金より生活を大事にされているようで、その方々に移住者は都会の価値観でこうしたら儲かるよなどとアドバイスされているが様子を見ているとどうも信頼されていないように見えた。
移住するという事はその土地に住むという事であり、まずはその土地の人や文化を尊重し、骨を埋める覚悟がないと島の人たちと心は繋がらないと思う。
ただ自分たちの世界で楽しむだけならそれでもいいかも知れないけれど…。
しかしそれはアジアなどでよく見かける白人が移住して、その国の文化を無視して自分たちの理想の暮らしをしているのと同じではないだろうか。
出来るだけみんなで仲良く楽しく暮らしたいですよね。
北上し宮古島に行くと目についたのが橋です。
公共工事で今は宮古島と伊良部を結ぼうとしている最中。
橋で島と島が結ばれる事は便利になるし、旅行者はドライブで行けて美しい海を楽に楽しむ事が出来る。
しかし誰でも来れるようになるだけに問題があるようです。
それを思ったのはこの連休の合間に沖縄本島北部の橋で繋がっているこうり島に行った時です。多くの人がやってきていてビーチはキャンプする人たちで溢れていた。楽しそうでいいのですが、マナーが…。安い大手スーパーで買い出しして島で遊ぶだけ遊んでゴミだけ残して帰るのはあまりに悲しい事だと思いました。なのでまずは自分自身が気をつけたい。
4年後に橋で繋がる伊良部島のその後が少し気になった。
本島に再び戻り、普天間基地をジュゴンの住む辺野古の海に移設する問題で揺れている大浦湾へ行き三線を通して平和も伝える金城師匠や海風の成田さんと出会った。
基地問題は地元の方たちも基地に依存しているため、とても複雑な経済となり難しい。
まずは基地に依存しない経済を地域で作っていく事が解決への一歩ではないかと言われてました。
そして沖縄最終日に竹富島で出会った方に薦められた「佐喜眞美術館」に行った。
佐喜真美術館は宜野湾市普天間の町のど真ん中にある事で有名な普天間基地の中に少し食い込むように建っている。
展示は40年以上沖縄戦や広島、長崎の原爆の様子を描いている丸木位里さん、俊さんや世界大戦中の画家ジョルジュ・ルオー、ケーテ・コルヴィッツなどです。
どれも戦争をイメージ出来るもので丸木さんの作品は亡くなった罪なき人々の様子を生き地獄のようにリアルに描かれ、戦争の悲惨さを写真以上に感じることができた。そしてやはり「ヌチドゥタカラ(命こそ宝)」なんだという事を改めて実感した。ちなみに中学三年生の文化祭の時の隣のクラス(学年は2クラスでした)の演劇が「ヌチドゥタカラ」ですごく良かった事を覚えています。
ルオーの作品は戦争で悪魔のようになった人々を描いたものが多く、これまた強烈なインパクトでした。
作品を通して沖縄の人たちの壮絶な人生を想像し、そしてそれを乗り越え、今は明るく気さくに暮らされているのをすごいと思った。
また改めて様々な方々の犠牲と沖縄に米軍基地があるおかげで今の日本の平和があるのだと実感し、感謝しなければならないし二度と同じ過ちを繰り返えさないように、自分なりにきちんと学び、考え、語り継ぎ伝えていこうと思った。
佐喜眞美術館の資料には太平洋戦争で日本の死者300万人、アジアで2000万人と書かれていた。日本がアジアで何をしていたのかというのもいつか知りたいと思う。
最後の夜うどん会で沖縄の人について感想を聞かれ、温かいく優しいと答えると「それは厳しい搾取や戦争という貧しく厳しい時代をみんなで助け合って生きてきたからだよ」と教えられた。
これから先に貧しい時代が来ようともみんなでなんくるないさ~って言って助け合って生きていける沖縄の人のような心豊かな人になりたい。
大変お世話になりいろいろ事を教えて下さった方々と島に心から感謝です。
これからも何度も理由をつけては沖縄に来てしまうであろうほど好きになってしまいました!
ありがとうございます!!
「島という世界にはすべてが凝縮されていると私は思います。生きること、のすべてが…」
その時はわからなかったけど今なら少しわかる気がする。
わずか二ヶ月でしたが島を巡り、様々な方と出会い感じた事を自分なりに書いてみようと思います。
沖縄入りした始めの頃、祭などを通して島の方に触れた時、島人の誇りを感じた。ヤマトの人間には負けないよ…というようなどこか一線引かれたような雰囲気があったような気がする。言葉は島人どうしだと全くわからない。ここは国が違うと思った。
それ以後、自分自身が島に馴染んできたせいなのか(顔の濃さと色の黒さのマッチングおかげか…)強く感じることはなくなった。
島を南下し八重山へ行った時にはうちなんちゅ(島人)と島ないちゃー(移住しているないちの人)との係わりが気になった。
美しい自然(しかし年々珊瑚も減り、魚も減っている)と日本という国の中にある東南アジア的な空気などに惚れてやっくる人、人、人。お金を持った人や若者、ヒッピーまで様々。
賑やかになり、新しい風が作り出すいい事もたくさんあるけれど、一方では新聞で何か事件やトラブルが起こると原因はないちゃーが多いようだ。
またないちゃーの仕業かと島人はご立腹のご様子でした。
そしてお金の価値観も都会から来る人とは違うように思う。特にハルサー(農家さん)の方はお金より生活を大事にされているようで、その方々に移住者は都会の価値観でこうしたら儲かるよなどとアドバイスされているが様子を見ているとどうも信頼されていないように見えた。
移住するという事はその土地に住むという事であり、まずはその土地の人や文化を尊重し、骨を埋める覚悟がないと島の人たちと心は繋がらないと思う。
ただ自分たちの世界で楽しむだけならそれでもいいかも知れないけれど…。
しかしそれはアジアなどでよく見かける白人が移住して、その国の文化を無視して自分たちの理想の暮らしをしているのと同じではないだろうか。
出来るだけみんなで仲良く楽しく暮らしたいですよね。
北上し宮古島に行くと目についたのが橋です。
公共工事で今は宮古島と伊良部を結ぼうとしている最中。
橋で島と島が結ばれる事は便利になるし、旅行者はドライブで行けて美しい海を楽に楽しむ事が出来る。
しかし誰でも来れるようになるだけに問題があるようです。
それを思ったのはこの連休の合間に沖縄本島北部の橋で繋がっているこうり島に行った時です。多くの人がやってきていてビーチはキャンプする人たちで溢れていた。楽しそうでいいのですが、マナーが…。安い大手スーパーで買い出しして島で遊ぶだけ遊んでゴミだけ残して帰るのはあまりに悲しい事だと思いました。なのでまずは自分自身が気をつけたい。
4年後に橋で繋がる伊良部島のその後が少し気になった。
本島に再び戻り、普天間基地をジュゴンの住む辺野古の海に移設する問題で揺れている大浦湾へ行き三線を通して平和も伝える金城師匠や海風の成田さんと出会った。
基地問題は地元の方たちも基地に依存しているため、とても複雑な経済となり難しい。
まずは基地に依存しない経済を地域で作っていく事が解決への一歩ではないかと言われてました。
そして沖縄最終日に竹富島で出会った方に薦められた「佐喜眞美術館」に行った。
佐喜真美術館は宜野湾市普天間の町のど真ん中にある事で有名な普天間基地の中に少し食い込むように建っている。
展示は40年以上沖縄戦や広島、長崎の原爆の様子を描いている丸木位里さん、俊さんや世界大戦中の画家ジョルジュ・ルオー、ケーテ・コルヴィッツなどです。
どれも戦争をイメージ出来るもので丸木さんの作品は亡くなった罪なき人々の様子を生き地獄のようにリアルに描かれ、戦争の悲惨さを写真以上に感じることができた。そしてやはり「ヌチドゥタカラ(命こそ宝)」なんだという事を改めて実感した。ちなみに中学三年生の文化祭の時の隣のクラス(学年は2クラスでした)の演劇が「ヌチドゥタカラ」ですごく良かった事を覚えています。
ルオーの作品は戦争で悪魔のようになった人々を描いたものが多く、これまた強烈なインパクトでした。
作品を通して沖縄の人たちの壮絶な人生を想像し、そしてそれを乗り越え、今は明るく気さくに暮らされているのをすごいと思った。
また改めて様々な方々の犠牲と沖縄に米軍基地があるおかげで今の日本の平和があるのだと実感し、感謝しなければならないし二度と同じ過ちを繰り返えさないように、自分なりにきちんと学び、考え、語り継ぎ伝えていこうと思った。
佐喜眞美術館の資料には太平洋戦争で日本の死者300万人、アジアで2000万人と書かれていた。日本がアジアで何をしていたのかというのもいつか知りたいと思う。
最後の夜うどん会で沖縄の人について感想を聞かれ、温かいく優しいと答えると「それは厳しい搾取や戦争という貧しく厳しい時代をみんなで助け合って生きてきたからだよ」と教えられた。
これから先に貧しい時代が来ようともみんなでなんくるないさ~って言って助け合って生きていける沖縄の人のような心豊かな人になりたい。
大変お世話になりいろいろ事を教えて下さった方々と島に心から感謝です。
これからも何度も理由をつけては沖縄に来てしまうであろうほど好きになってしまいました!
ありがとうございます!!