
2月15日
薩摩半島の南部に位置する「知覧」という街を知ってますか?
薩摩の小京都と呼ばれ武家屋敷が立ち並び、またその中に南国の雰囲気もあり風情のある美しい街で観光地です。
しかし以前知覧の話を聞いて行きたいと思ったのはここではなく、郊外にある「平和会館」でした。
知覧は太平洋戦争末期に最南端の航空基地として「特別攻撃隊(特攻隊)」が1番多く出撃していったところなのです。
「特攻隊」は太平洋戦争末期、沖縄沖に集まっていた連合軍の軍艦に通常の弾薬を二倍以上積んだ戦闘機で捨て身の体当たり攻撃を目的としたもので、一度離陸すればあるのは「死」のみの決死隊。
特攻隊員は日本各地また朝鮮からも選ばれ年齢は17歳から20代前半の若者ばかり。
そんな「命」をかけて日本を守るため戦った若者の遺影や遺書、日記などの資料が平和会館には展示されています。
平和会館に入って最初に感じたのは遺影の写真。
となりにいた人たちがこう言いました「今の若者とは顔付きが違うね」
瞳に力があり、落ち着いた感じに見えた。
また隊員が地元の子たちと遊んだりしている写真ではいい笑顔で目前に迫った死を全然感じません。
なぜだろう…
遺書の多くには
「大日本帝国万歳」
「天皇陛下万歳」
お国のために死ぬ事ができて本望です
など書いてありますが最後は
「父上様、母上様先に徃く事をお許し下さい。心からありがとうございました。」というような感謝の言葉が書かれていました。
特攻出撃の前夜には布団の中で涙を流す若者も多くいたようですが、出撃の時は覚悟を決めて笑顔で離陸していったそうです。
遺書や日記には名誉な死を迎える事ができて光栄だとたくさん書かれていますが、ある隊員の日記には日のあたる草の上にねころんでいる時に
楽しそうな小鳥の声を聞き「俺もこんどは小鳥になるよ」
と書いてありました。
やはり平和に暮らしたいという思いのような気がします。
「命」というものがあまりに軽くなってしまう戦争というものが絶対にしてはならないというのを改めて実感しました。
親の立場の方がみるとまた違って感じるんだろうと思います。
また来たいです。
鹿児島へお越しの時は知覧にも足を運んで下さい。
薩摩半島の南部に位置する「知覧」という街を知ってますか?
薩摩の小京都と呼ばれ武家屋敷が立ち並び、またその中に南国の雰囲気もあり風情のある美しい街で観光地です。
しかし以前知覧の話を聞いて行きたいと思ったのはここではなく、郊外にある「平和会館」でした。
知覧は太平洋戦争末期に最南端の航空基地として「特別攻撃隊(特攻隊)」が1番多く出撃していったところなのです。
「特攻隊」は太平洋戦争末期、沖縄沖に集まっていた連合軍の軍艦に通常の弾薬を二倍以上積んだ戦闘機で捨て身の体当たり攻撃を目的としたもので、一度離陸すればあるのは「死」のみの決死隊。
特攻隊員は日本各地また朝鮮からも選ばれ年齢は17歳から20代前半の若者ばかり。
そんな「命」をかけて日本を守るため戦った若者の遺影や遺書、日記などの資料が平和会館には展示されています。
平和会館に入って最初に感じたのは遺影の写真。
となりにいた人たちがこう言いました「今の若者とは顔付きが違うね」
瞳に力があり、落ち着いた感じに見えた。
また隊員が地元の子たちと遊んだりしている写真ではいい笑顔で目前に迫った死を全然感じません。
なぜだろう…
遺書の多くには
「大日本帝国万歳」
「天皇陛下万歳」
お国のために死ぬ事ができて本望です
など書いてありますが最後は
「父上様、母上様先に徃く事をお許し下さい。心からありがとうございました。」というような感謝の言葉が書かれていました。
特攻出撃の前夜には布団の中で涙を流す若者も多くいたようですが、出撃の時は覚悟を決めて笑顔で離陸していったそうです。
遺書や日記には名誉な死を迎える事ができて光栄だとたくさん書かれていますが、ある隊員の日記には日のあたる草の上にねころんでいる時に
楽しそうな小鳥の声を聞き「俺もこんどは小鳥になるよ」
と書いてありました。
やはり平和に暮らしたいという思いのような気がします。
「命」というものがあまりに軽くなってしまう戦争というものが絶対にしてはならないというのを改めて実感しました。
親の立場の方がみるとまた違って感じるんだろうと思います。
また来たいです。
鹿児島へお越しの時は知覧にも足を運んで下さい。
知覧の隣は川辺町です。八幡の蔵元がお出でです。気骨な薩摩隼人ここに在り!というような流行に流されない揺れない方です。
もし、川辺に行けたら「磨崖仏を観に岩屋公園」に是非!
川辺にいったのですが磨崖仏はみてなかったです。
看板はいっぱいでてたので気にはなったのですが…
また行く機会あれば見ますね。