今「権威」がなくなっている。
ネットの発達によって、今まで「権威」と思われていたものの化けの皮が次々と剥がされている。
政治家も大学者も大社長も大作家も大論説者も新聞もテレビも、あるいはテンノーヘイカも今や権威と言う面からみれば形無しである。
大衆は、ただ「権威」と称するだけでは全く共感することも従うことも無い。
昔は、例えば政治家のことを誰もが「リーダー」と考えていた。
しかし、今では「政治家」は大衆の「手駒」である。
ましてや尊敬の対象などではない。
政治家が大衆を操縦できるなどと考えたら大間違いである。
できるとすれば為にするデマゴーグの情報を流布して大衆を扇動することくらいである。
社会に影響力のある者は表から覆い隠されている。
もっとも、ネットの情報はそういうものの仮面をはぎ取るのも得意なのだが・・・
しかし、この手の策術には現代社会の陥りやすい罠が待っている。
一方の方向に傾きだすとそれが無抵抗のままに一気にその方向に走り出すからだ。
これは第三者が影響力を行使すれば防止できるということではない。
大衆、一人一人が、現代の状況はそのような危険をはらんでいるということを自覚して行動するしか対策はない。
下萌えぬ長くも短き生き死にか 素閑
みちのくの水の下にも下萌えぬ 素閑
名も知れぬ人の塚にも下萌えぬ 素閑
下萌えぬ齢は六十路を越えにけり 素閑
下萌えぬ焼け焦げし町村の跡 素閑
草萌えぬ遠くに鐘の高き塔 素閑
下萌えぬ鰊の蕎麦の茶屋の前 素閑
刻々と春の草には時が来し 素閑
下萌えぬ泉と原と浅黄色 素閑
村長の孫は都へ下萌えぬ 素閑
ながながと寝そべる猫や下萌えぬ 素閑
暮れ時になると考える。
今日は何をなしたのかと。
別に人様に言えるほどのことはやっていない。
大抵、無為に過ごしている。
人に使われ、組織に属していた時はこんなことは考えなかった。
考える余裕がなかったというほうが正しい。
時間と山のような仕事に追いまくられ、成果として一日、何をやり終えたかなど考える暇がなかった。
もちろんクォータだのヒストグラムは毎日意識して、憂鬱な気分になっていた。
しかしだからと言ってそれを達成したとしても、どうしてもやったという実感がわかないのである。
晴れて自由の身となった今は、同じく虚無感と徒労感にさいなまれている。
想えば無為徒食の人生だったとつくづく思う。
花菜漬け飯に熱き茶かけ注ぎ 素閑
花菜漬け雨の小僧が土間の口 素閑
醒めた酒花菜の漬けもの齧りたり 素閑
花菜漬け野の鳥たちもささやけり 素閑
花菜漬けくさむら低く鳥飛べり 素閑
嵯峨の宿茶飯に豆腐花菜漬け 素閑
花菜漬け遊山を帰りせせらぎや 素閑
一平も京子もそろひ花菜漬け 素閑
妻よそう飯につけられ花菜漬け 素閑
花菜漬け師の世を去りてはや三年 素閑
花菜漬け会うも別れもけふのこと 素閑
花菜漬け八つに読みし物語 素閑
九尾の狐の物語というのがある。
妖怪めいている。
てっきり那須の殺生石にまつわる伝説かと思ったら、各地に似たような言い伝えがあるらしい。
そもそもは中国起源で、その言い伝えの勢力範囲は東アジア全体に及んでいる。
大体は、絶世の美女に化けて人に害をなすものとして語られる。
日本でも多くの学者文人が言及している。
神獣か妖怪かの議論があるらしい。
しかし一般に美女は魔物である。
人をたぶらかすということにかけては古今東西の別がない。
女は愛嬌である。
整い過ぎた容姿はよろしくない。
飯蛸や二つに割かれ伊万里鉢 素閑
飯蛸に日もなごみけり辛子味噌 素閑
湯に通し飯蛸赤く伸びにけり 素閑
飯蛸の素性も聴かず塩まきて 素閑
飯蛸や艫の幟の南風 素閑
新たなる妻に飯蛸割かせけり 素閑
飯蛸の里山染めて七分咲き 素閑
飯蛸や大凪の灘舟を漕ぎ 素閑
飯蛸や桂の浜の汐けむり 素閑
こひぶみを渡せぬ果ての飯蛸や 素閑
さばさばと世間を渡り飯蛸や 素閑
ルノー・日産のカルロス・ゴーン元会長の法的処遇に関して世が喧しい。
人質だとか果てや拘置所の環境が酷いとか・・・
日本人の感覚からすれば、悪いことをしたらしょっ引いて、潔くお縄につけばよいと思うのが普通ではないか?
それが冤罪だったり、政策的な逮捕だったら、それはそれで検察側が処断されればいい事である。
法は曲げられない。
そこにフランス政府が顔を出し文句を言っているのも滑稽だ。
どこかの人治主義の国と日本は違う。
きちんとしたルールと慣例と合理性に基づいた裁量によって司法行政は行われている。
もちろん検察をはじめ司法を信頼しすぎるのも考え物だが、少なくとも日本の制度・法体系は国民の信頼・信託によって成り立っており、合理的に運用されている。
ゴーン氏の今後は見守るしかないが、潔白であれば合理的にそれを証明してほしい。
「大物」であれば尚のことである。
湯の里に物々しけれ猟名残 素閑
尾根向こう銃を撃つ音猟名残 素閑
山鳥の羽根と血残し猟名残 素閑
北山に落ちる日の影猟名残 素閑
猟名残板間に孫の寝る籠や 素閑
猟名残藪の濃くなる季節かな 素閑
猟名残水瀬の元は山葵の田 素閑
猟名残分け入る渓は静かなり 素閑
猟名残里に入り来る旅商人 素閑
猟名残狩人の背に枯れ松葉 素閑
千曲川なおみなもとや猟名残 素閑
どうも気分がすぐれない。
とはいえ気分がすぐれないのは毎度のことだ。
このような不安定な境遇にいては、気分がすぐれるほうがどうかしている。
まあ当然の報いと言えば報いなので、甘んじてこの不快感は受け入れよう。
しかし他の世の人は普段どんな気分でいるのかよく分からない。
常に天に上ったかのような気持ちでいられる人もいるのだろうか?
オカブが思うに、誰しも生きることの、世を渡ることの重荷を背負って、その辛さに耐えているのではないか?
だからその苦悩と苦痛は誰もが等しく、多少の程度の差があるくらいのものだと推測している。
気晴らしに何か打ち込めるものを持っている人はいい。
しかし大半の人は苦渋に満ちた表情で背を丸めて生きているのではないか?
麦踏める畑の端場五輪塔 素閑
山はまだ固く閉ざされ麦踏めり 素閑
枝のみがただ空に延び麦踏めり 素閑
ただ和せり疎水の音や麦踏めり 素閑
恐竜の骨も出でぬや麦踏めり 素閑
麦踏にかえりし父や土間に座し 素閑
魚取りのゆるき素振りや麦踏めり 素閑
荒れ果てし野に雲流れ麦踏めり 素閑
野の果ては津軽の山や麦踏めり 素閑
後れ髪ただ風なびき麦を踏む 素閑
麦踏を終えてのぐさの鍋なれば 素閑
顔は人を表すというが本当にその通りだと思う。
もちろん「顔」とは目鼻立ちのことではない。
人間のこれまでの生き様や人格、考え方などが言い表しようのない表情や面相に如実に表れていることを言う。
その点、自分は実に貧相な底の浅い顔をしている。
何も考えないで時に流され生きてきたからだと思う。
目鼻立ちが整わない道具立てでも、実に立派な顔をしている人もいる。
こういう人は経歴も人格も立派なのだろうな、と思ってしまう。
これは男女を問わない。
リンカーンの「男は40になったら自分の顔に責任を持て」と言う言葉は「男も女も」と訂正すべきだろう。
ぬなわ生ふ和歌の師あらば雨に訪ふ 素閑
岸の路ぬなわ生ひたり仄暗し 素閑
行くならじぬなわ生ひたる池の端 素閑
蓴生ふ高徳の僧みまかりて 素閑
蓴生ふ水泡岸辺にあがりたり 素閑
蓴生ふ林の奥の古が池 素閑
水漬けし手を引っ込めてぬなわ生ふ 素閑
蓴生ふ近江の里の月寒し 素閑
蓴生ふ相手のおらぬ蕎麦屋酒 素閑
小沢より水を得る池蓴生ふ 素閑
神龍の棲み老ゆ池や蓴生ふ 素閑
因果応報と言う言葉があるがこれはまことにその通りである。
原因があって結果がある。
その双方にはそれなりの筋道がある。
そして結果を作った原因は自分の責任なのだから反省せよということである。
近年の自己責任論に近いものでもある。
我々は須らく、毎日を原因の創成と結果の享受に明け暮らしている。
良きこともあれば悪しきこともある。
ただ常に結果は自分に返ってくることを頭に入れて緊張を持って過ごさないと、足元をすくわれる。
なかなか楽ではないが、生きることとはそういうことである。
蔓草の鋭き棘や春浅し 素閑
ポケットに手をいる画家や春浅し 素閑
水澄めど汲むものも無し浅き春 素閑
曙や浅き春をば始めけり 素閑
古妻と手を取り合って浅き春 素閑
石段に照る日の明かき春浅し 素閑
表にて泣く子の頬や春浅し 素閑
山里の川の木橋や春浅し 素閑
硝子窓開けてはみるや春浅し 素閑
高麗の青磁買わされ春浅し 素閑
すり硝子朝日に光り春浅し 素閑
ラーメンが好きだ。
有名店に列を作って並んで食うラーメンではない。
5パック幾らのスーパーで売っているインスタントラーメンだ。
これを作るには湯を煮たたせ麺がほぐれたら生煮えのまま丼に盛って、長ネギをぶった切ったものを一本分、載せて食う。
実に豪快だ。
ラーメンを食っているのか葱をかじっているのか分からない。
ラーメンと並んで葱も大好きだ。
長ネギを生のまま一本、味噌をつけて齧ってみたい気もするが、これはまだやったことがない。
こういうゲテモノと言うか、変わった食い物が好きだ。
金はないが大抵の美味いものは食ったので、こういう悪趣味に走る。
だがこれでいいと思っている。
片栗の花の林の山霧や 素閑
はつゆりの足元の里人見えず 素閑
片栗の花揺らめけり葉風どき 素閑
かたかごの花や年増の姉御肌 素閑
竹籠をえて片栗の花を見し 素閑
片栗の花や山家の大鎌や 素閑
片栗の花の滴や菅の笠 素閑
片栗の花を踏むなよ旅の人 素閑
片栗の花も大河の元となり 素閑
片栗の花落ち行けるもののふや 素閑
はつゆりや咲けどおとなふ者も無し 素閑
来年のことを言うと鬼が笑うというが、自身の行く末はどのようになってしまうかの不安はある。
経済的な保障は何もない。
資産と言っても雀の涙ほどだ。
娘はまだ発展途上。
かーたんは病身。
オカブは全く稼げていない。
こういう状況を救ってくれる社会制度みたいなものはないのだろうか?
もう、どうにでもなれと自棄になるしかない。
下流老人になるしかないのは分かっているし、もとより覚悟の上だ。
しかし、そうは言っても飯は食わねばならぬ。
その当てがまったくないのだ。
困ったものだ。
春めきぬ焼田にほのか虫のごと 素閑
春めくやピンクの衣装の娘さん 素閑
春めけり自転車音無く通り過ぎ 素閑
朝潮や春めく伊豆の瑠璃の海 素閑
春めくや小鯵の朝餉那須の宿 素閑
あけぼのと古人の語り春めくや 素閑
桟橋にテープ残りぬ春めくや 素閑
僧堂のしんと人なく春めけり 素閑
干潮の浜辺の貝や春めけり 素閑
春めけり関東平野に花の咲く 素閑
音静かふすま閉まりぬ春めけり 素閑
プロヴァンスに行きたい。
夏に行きたい。
観光地ではなく、誰も行かない田舎に行きたい。
輝く太陽、碧色の空、しじまを破る噴水の音。
そんな中で夢と現の中を行きつ戻りつして無聊に身を任せたい。
贅沢な望みである。
多くの日本の文人が古来より南仏プロヴァンスに憧れたが、まさに、その西欧にあっての異国性。何と言っていいのか分からないが、西欧に在って西欧ではないエキゾチシズムが人を惹きつける。
豊かな風物。しかしそれはパリのような整然とした西欧の都会の文化ではない。
十字軍の昔から異文化との接点を持った、ある種雑然とした環境である。
太陽に照らされたプロヴァンス。
魅力的である。
日曜のミモザの咲ける垣の家 素閑
祝祷に散じる人やミモザ咲く 素閑
あざやけくミモザの如き胡姫みたり 素閑
寡婦の弾くショパンの雫ミモザ咲く 素閑
空鈍くミモザの微風染むる街 素閑
羅漢たちミモザの陰でほの笑ひ 素閑
ミモザ咲く神宮の路煉瓦塀 素閑
ミモザ咲く風に笑うは娘たち 素閑
花ミモザモンマルトルの石段や 素閑
おくれ毛をただなでる風花ミモザ 素閑
硝子窓ミモザの咲くを午後の茶に 素閑