故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

長岡謙吉の顕彰碑を見学

2013年05月26日 19時48分46秒 | 幕末史

昨日は高知の幡多倉公園の中にある長岡謙吉の顕彰碑を見学に行った。 顕彰碑とは関係ないが目の前に「1×1=1」というアイスクリンの店があった。高知へ行くと必ずと言っていい位食べているが、ここにお店があったんだ。

 

これが顕彰碑、平成25年3月に建ったからほんとに最近。香川県より、何故か涼しい高知で謙吉について説明を聞いた。

 

長岡謙吉は、天保5年(1834)生まれ。号は懐山。高知城下の浦戸町の医師・今井孝順の息子として生まれる。旧浦戸町は現在の南はりまや町一丁目であり、今、得月楼本店の南庭付近である。写真の庭の一角と右側の民家あたりが謙吉の生家である。

 

父親の孝順は坂本龍馬の継母・伊予の縁者である。つまり龍馬と謙吉は親戚である。幼少期12~13歳の頃より、近所の絵師・河田小龍の「墨雲洞」に出入りするようになる。小龍は高知城下随一の国際通として有名だった。謙吉は小龍から幅広い知識を得、蘭学を学ぶ、また奥宮慥斎から陽明学習得する。その後、大阪の春日簡平の門に入る。当時の春日塾は大阪では緒方洪庵の適塾と並ぶ西洋医学の学塾であった。安政6年(1859)謙吉は脱藩して長崎へ。長崎ではシーボルトの高弟・二宮如山に師事し、医学とオランダ語学ぶ。 文久2年シーボルト事件に関与したとされ帰国を命ぜられた。半年間の獄中生活を経て3か年の城下禁足の命を受けた。この頃、一宮村の医師の娘、琴と結婚、娘も誕生していたが、妻子を捨て再度の脱藩を決意し再び長崎へと向かった。そこで、坂本龍馬と出合う。慶応3年1月に後藤象二郎と龍馬は「清風亭」で会談し、亀山社中から「土佐海援隊」にすることが成立する。そこから土佐海援隊ナンバー2として謙吉が活躍するのである。龍馬は長岡の才能を高く評価し、海援隊の通信文書の作成など、事務処理のほとんど任し土佐海援隊文司として使用する。文司とは現在の秘書的な役割である。謙吉がすぐとりかかったのが隊則「海援隊約規」の起草であった。また当時に起こった「伊呂波丸事件」の顚末書や上申書、記録等事務処理をやっていった。「船中八策」を起草したのも謙吉である。龍馬の死後海援隊は7か月間存続した。その間抜擢された隊長が謙吉であった。   その後丸亀の無血開城は、板垣退助率いる600の兵を開城して迎い入れるが、その端緒を開いた長岡謙吉と土肥大作の功績は大きかった。維新後も2人の交情は継続し一緒に新政府設立の仕事をすることになる。謙吉が三河県で就任した時も大作は三河県判事として働くのである。  謙吉は明治5年(1872)6月11日に突然吐血し、逝去した。享年39。墓は芝増上寺内安養院にある。

また交友のあった土肥大作も少し前の明治5年5月24日新治県参事在任中に自刃した。享年36。  謙吉邸跡の庭を見ながら得月楼で食事を。

 美味しかったです。  って事でこの辺で、じゃ~またネ



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