故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

防府の旅・楫取素彦・文(美和子)

2014年03月23日 16時48分14秒 | 幕末史

今朝も5時起き。5時半から丸亀港からお城経由で1時間50分の歩きだった。城内では早くも5月のお城まつりの準備だろうかお化け屋敷の小屋が搦め手広場に設置されている。 早いなぁ~

 

今日は防府の旅、防府市桑山1丁目の大楽寺から。

 

この寺の南方、桑山裾に野村望東尼の墓はあったのだが、その望東尼に並々ならぬ配慮をした楫取素彦の墓は大楽寺の一般の墓地から離れ、寺の南側に。

 

右側が楫取素彦の墓、左側は楫取家之墓となっているが裏面には美和子の名前が刻まれている。来年の大河ドラマは「花燃ゆ」が決まっている、ヒロイン文(美和子)を中心にどんな幕末・明治が描かれるか楽しみである。

 楫取素彦は、文政12年(1829)3月15日、長門国三隅村(現・長門市)侍医、松島瑞璠誠成の次男として生まれる。天保11年(1840)6月儒者・小田村吉平の養子となる。慶応3年9月楫取素彦と改称。吉田松陰の信頼が厚く、松陰の激論を受け止めて互いに信頼しあう。また「松下村塾」の相談にも乗り、時々訪問し援助を与えた。また、慶応元年に大宰府で知り合った坂本龍馬の長州への入国に協力し、薩長同盟を結ぶ、いとぐちを作ったともいわれる。明治政府では元老院議官・貴族院議員等々の重職を務め、群馬県知事時代には教育の普及に道徳教育を最重要し、また農業・養蚕で生糸を海外に輸出するなど群馬県政発展の基礎を築いた。

私生活では、小田村時代に松陰の妹寿子と結婚するが明治14年に43歳で亡くなった。 寿子が病死した後、やはり、松陰の妹・寿子の妹で、久坂玄瑞嫁ぎ、禁門の変により、22歳で未亡人になっていた文(美和子)と明治16年に、再婚している。楫取は、吉田家に信頼があったということだろう。 その美和子に看取られながら、楫取は、大正元年に、防府市岡村(現在PL教会の地)で亡くなった。現在防府市内で楫取素彦のかかわった石碑は7碑以上もあるという。なお、美和子は、大正10年に、79歳で没している。

お寺の北側駐車場へ帰る時、通路の右側にあの夏目雅子さんの墓があった。

昭和60年9月11日 

   西山雅子 芸名・女優 夏目雅子 27歳 と書いてある。  

って事で、まだ防府の旅は続きます。今日はこれまで、じゃ~またネ。


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