故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

防府市訪問  野村望東尼を訪ねて

2014年03月22日 10時07分18秒 | 幕末史

今朝は5時20分からの歩きで善通寺市へ。母の実家のある稲木町まで、1時間40分の歩きだった。祖先様のお墓もお参り、その後、お寺にもお参りしてきた。こんな無心人な私でも、お彼岸ともなれば自然とお参りに。お寺の入口にこんな言葉が。 『もっと もっと 悩まねばなりません』 ・・・。

  

3月8日の土曜日、山口県防府市へ行ってきた。高杉晋作を助けた、幕末の女流歌人で勤王家の野村望東尼と前から気になる飛船問屋、大和屋政助を見てみたいと朝5時半に出発した。途中2回ほど休憩しながら防府東インターに降りたのは9時半であった。以前、福岡市の平尾山荘を見学したことがある。これは、その時の、野村望東尼の胸象と平尾山荘だ。

 

野村望東尼、本名は「もと」。文化3年(1806)9月6日、黒田藩士浦野重右衛門勝幸(300石)の三女として生まれた。文政12年(1829)野村新三郎貞貫(413石)の後妻となって、弘化2年(1845)貞貫と平尾に隠棲する。夫婦ともに和歌をたしなみ、54歳の時に夫に病死され髪をおろし、禅尼、向陵院招月望東禅尼となった。文久元年(1861)京都に上り尊王攘夷運動に接して勤王の志を高くし、帰郷後は勤王の志士たちと交流を深めた。 

そして今回訪問した防府天満宮の境内にある野村望東尼胸像。

 

望東尼が平尾の山荘を詠んだ和歌  『音もなき寛の水のしたたりも たりあまりたる谷の一つ家』

高杉晋作は元治元年(1864)に長州藩の保守派に命を狙われるようになり、この平尾山荘に潜伏し難を逃れた。望東尼は慶応元年(1865)、黒田藩の勤王派の弾圧により玄海の姫島に流されたが、11ヶ月のちに高杉晋作の命を受けた者により救出された。

助け出された望東尼は馬関で、高杉晋作の最後を看取ることとなる。

『面白きこともなき世を おもしろく』 晋作   『すみなすものは こころなりけり』  望東尼

 

これも、天満宮境内にある望東尼献歌碑で、倒幕軍の戦勝祈願のため天満宮に七日まいりした和歌1日目の歌。

『もののふのあたに勝坂越えつつも祈るねきことうけさせたまへ』

  

鞠生の松原にある子烏神社

慶応3年(1867)11月25日長州・薩摩連合軍が幕府軍と戦うために、鞠生の松原に集結し、この小烏神社に戦勝祈願した。三田尻の港から船で東上し鳥羽伏見の戦いへと進んでいった。

 

 薩長連合の討幕軍東上を聞くと、望東尼は三田尻の歌友・荒瀬ゆり子宅に身を寄せた。そして7日間、防府天満宮に参詣、断食をして、和歌一首を手向け、倒幕軍の戦勝を祈願した。

(1日目) 武夫の仇に勝坂越えつつも祈るねぎごとうけさせ給え

(2日目) 濃染(こそめ)なすます穂のすすき穂に出て招くになびけ千種八千草

(3日目) 御世を思うやたけ心の一筋も弓取る数に入らぬかひなさ

(4日目) あづさ弓引く数ならぬ身ながらも思ひいる矢は唯に一筋

(5日目) 道もなく乱れあひたる浪波江のよしあしわくる時やこの時

(6日目) 唯七日我が日まゐりの果てなくに神無月ともなりにけるかな

(7日目) 九重に八重居る雲やはれむとて冬たつ空も春めきぬらむ

 しかし、7日間の断食は老齢の身に過酷で、病に倒れ、11月6日に62歳の生涯を閉じた。

望東尼終焉の地には碑が建っていた。

望東尼が防府滞在中に住んだ荒瀬家の離れは、今は桑山東麓の大楽寺の下に『野村望東尼終焉の宅』として移築されている。

 「正五位 野村望東尼之墓」

 

望東尼の墓は明治26年8月に楫取素彦によって再建された。

野村望東尼之墓裏面は、ほとんど読み取れないが僅かに最後の行、従三位勲二等男爵 楫取素彦撰と見える。

楫取素彦(小田村伊之助)撰で望東尼の事績を刻んであるという。

って事で今日はここまで、防府の旅はまだ続くよ。じゃ~またネ。


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