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明治の鉄道

2019年04月24日 | 但馬の交通
    国府コミュニテーセンターの玄関は花いっぱい


(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成27年 第10回但馬検定(2級)問題より

【37】明治時代に全国各地で鉄道が敷設される中、但馬でも
播但線、山陰線が開通しました。これらに関する次の記述で
間違っているのはどれでしょうか。

(a)播但線は1906年(明治39)、最後の工区となった新井~
   和田山間が完成し全線開通した。

(b)山陰線は、最大の難工事であった桃観トンネルが1911
   年(明治44)に、余部鉄橋が1912年(明治45)に完成し、 
   京都~出雲間が全線開通した。

(c)桃観トンネルの久谷駅側の石額に刻まれた、鉄道院総裁
  「後藤新平」の書は『惟徳罔小』である。

(d)旧余部鉄橋は長さ309m、高さ41.5mの鉄橋であったが、
   2010年(平成22)8月にはコンクリート製の新橋梁が完
   成した。


正解は、(c)です。
久谷駅側の石額には、萬方惟慶(ばんぽういけい)と書いてあ
ります。惟徳罔小(いとくぼうしょう)は余部駅側です。
記述の間違っているのは(c)となります。

 山陰線の中で、最大の難所が香住~久谷の工区でした。香
住から進んで来て鎧駅を過ぎすぐトンネルです。トンネルの出
たとこからは、高さ41.5mの余部鉄橋です。
この鉄橋がとても難工事でした。

さらに、余部を過ぎて久谷までは山です。山陰線の中でも最長
の1,991mの桃観(とうかん)トンネルです。
このトンネル工事は、4年の歳月と当時のお金で61万円とい
う巨費をかける難工事でした。
明治44年(1911)の完成時には、逓信大臣兼鉄道院総裁後藤
新平の筆による石額がトンネルの両側に掲げられました。
その銘が、萬方惟慶(ばんぽういけい:全ての人がこれを喜ぶ)
と、惟徳罔小(いとくぼうしょう:この徳は少なくない)と刻
まれているのです。

このような石額がトンネルに掲げられている例は、全国でも数
例という貴重なものです。


『こわゃ~』

 但馬弁で「こわゃ~」とか「こわゃあ~」というと、「怖い、固い」
って意味なのです。
「昔から、出石の初午にはお化け屋敷が来たんだよ。みんなこわ
ゃ~てキャア~キャア~言っとるで」なんて使います。

「固い」意味に使うのは、ご飯がごっちんに炊けてしまった時で
す。
「今日のご飯は失敗だにゃ~か。ご飯がこわゃあ~がな。ごっち
んになって炊けとるがな」なんて使います。

「怖い」も「固い」も、但馬弁では「こわゃ~」です。