「私説:本能寺の変」
中国大返しのきっかけとなったのは、備中高松城を水攻めにして毛利方と対峙していた秀吉の陣営に、光秀が毛利氏に向けて送った密使が紛れ込み、それを捕縛したことだとこれまで広く喧伝されてきたが、私はこれを疑っている。むしろ、秀吉が、自分がしていたことを誤魔化すために後日言いふらした作り話だと思う。
秀吉は、若い頃から美濃攻めがそうであるように諜報活動に熱心であったことは有名だが、本能寺の変の頃には主君信長だけでなく、明智光秀、柴田勝家、丹羽長秀などの重臣たちや、家康等の身辺にも手下の間者を放って、逐一、彼らの動向を探っていただろうことは容易に想像がつく。
だから、光秀が亀岡城を出て京への道と西国への道の分岐点であった沓掛を、都を目指して進軍した時点で秀吉手下の間者は第一報を報せに備中高松城の秀吉陣営に走ったものと推測する。最終的には、本能寺の変を見届けて報告に走った間者もいたに違いないが、第一報は数時間も前に届いていたことから、清水宗治の切腹を見届けてから秀吉が姫路城まで大返ししたとしても、先陣は秀吉よりも先に出立した可能性が高い。中国大返しは、和睦よりも前に始まっていたと見るのが妥当ではないだろうか。
秀吉に第一報をもたらしたのは紛れ込んだ光秀の密使ではなく、秀吉手下の間者であったと思うし、情報漏洩を防ぐためにその密使(間者)を切り捨てたというのも嘘だと思う。諜報活動の重要性をよく理解していた秀吉は、その密使(間者)を切り捨てたのではなく、過分なる褒美を与えたものと想像する。命懸けで秀吉に重要な情報を伝えた間者を切り捨てるようなことをすれば、秀吉のために命懸けで働く間者がいなくなるのは必定だ。
光秀の謀反の理由には諸説あり、本当はどれなのか私は分からない。しかし、秀吉が紛れ込んだ光秀の密使を通じて本能寺の変を知ったというのは作り話だと前々から考察していたので、この際に書き留めておこうと思った次第である。
中国大返しのきっかけとなったのは、備中高松城を水攻めにして毛利方と対峙していた秀吉の陣営に、光秀が毛利氏に向けて送った密使が紛れ込み、それを捕縛したことだとこれまで広く喧伝されてきたが、私はこれを疑っている。むしろ、秀吉が、自分がしていたことを誤魔化すために後日言いふらした作り話だと思う。
秀吉は、若い頃から美濃攻めがそうであるように諜報活動に熱心であったことは有名だが、本能寺の変の頃には主君信長だけでなく、明智光秀、柴田勝家、丹羽長秀などの重臣たちや、家康等の身辺にも手下の間者を放って、逐一、彼らの動向を探っていただろうことは容易に想像がつく。
だから、光秀が亀岡城を出て京への道と西国への道の分岐点であった沓掛を、都を目指して進軍した時点で秀吉手下の間者は第一報を報せに備中高松城の秀吉陣営に走ったものと推測する。最終的には、本能寺の変を見届けて報告に走った間者もいたに違いないが、第一報は数時間も前に届いていたことから、清水宗治の切腹を見届けてから秀吉が姫路城まで大返ししたとしても、先陣は秀吉よりも先に出立した可能性が高い。中国大返しは、和睦よりも前に始まっていたと見るのが妥当ではないだろうか。
秀吉に第一報をもたらしたのは紛れ込んだ光秀の密使ではなく、秀吉手下の間者であったと思うし、情報漏洩を防ぐためにその密使(間者)を切り捨てたというのも嘘だと思う。諜報活動の重要性をよく理解していた秀吉は、その密使(間者)を切り捨てたのではなく、過分なる褒美を与えたものと想像する。命懸けで秀吉に重要な情報を伝えた間者を切り捨てるようなことをすれば、秀吉のために命懸けで働く間者がいなくなるのは必定だ。
光秀の謀反の理由には諸説あり、本当はどれなのか私は分からない。しかし、秀吉が紛れ込んだ光秀の密使を通じて本能寺の変を知ったというのは作り話だと前々から考察していたので、この際に書き留めておこうと思った次第である。