ひめはぎのはな

踏青。翠嵐。蒼穹。凛然。…爽やか、山日和。by sanpoiwa1736

死生知らずの野武士を率いて四国の虎へ

2010-10-20 22:20:12 | 小説.六韜三略

・・・・・・長曾我部元親(1539~1599)

 子供のころに“長宗我部”という名を知りました。
この特異な名を一度聞いたら忘れません。以来、どうゆう人物か知らずとも、戦国ゲームではよく贔屓してます。
なお、本文では“長曾我部”をあてがわれているので、以降、統一します。
 
 第十二回は、その長曾我部元親の生涯を描いた司馬遼太郎の“夏草の賦 上・下”(文春文庫)です。
 

姫若子と呼ばれ死若き当主・元親が、長浜合戦で五百の軍勢で山本茂辰率いる二千を破り潰走させたことから、土佐一郡の領地から権謀奸謀を巧みに使い土佐一国を平らげます。
 
 天正二年、八紘為宇の理念のもと、長曾我部軍は阿波へ攻め入り、翌天正三年、伊予へも進軍を開始し快進撃を続けます。そんな中、阿波では三好一門の「鬼十河」こと十河存保が勝瑞城に立てこもり頑強に抵抗。しかし、その存保も土佐兵の猛攻撃に耐え切れず阿波から逃れます。
元親は念願の「四国の蓋」に成りえますが、それも束の間、山崎の合戦で光秀を討った秀吉が、四国討伐軍を編成し、六万もの大軍を上陸させます。他に毛利軍四万、宇喜多軍二万三千。元親は降伏し土佐一国へ。
 天下統一を成し遂げた秀吉の宴席で・・・。


「天下でござる」
といった。秀吉は笑い出した。
「四国だけが望みではなかったのか」
「なんの四国ごとき」
と、元親は吐きすてるようにいった。四国ごときが最終の望みではなかったという。
「おもしろい」
秀吉は、からかっていた。


(本文抜粋)


 四国統一を目指し、元親は一領具足を導入します。平素は農民でありながら、戦が起こると鍬を槍に持ち替えて戦場へ駆けつけます。「土佐物語」では“死生知らずの野武士なり”と記され、勇猛果敢な兵として恐れられます。
しかし、土佐を飛び出したことによって兵の補充が必要不可欠となり、国は披弊しきってしまいます。そもそも土佐国は、南は海に面し隣接する国境は急峻な山岳によって阻まれ、大軍が通れる道はないに等しく、戦よりも行軍自体が難儀な時代でした。そんな中、土佐一郡から四国を制圧しただけでも偉業であったような気がします。
 
 元親の妻・奈々がまた盛り上げる。その一番は、謀略のために元親が一条家へ奈々を送り込んだ一件です。茶釜を足蹴に女合戦に至る騒乱は読んでるこちらも面白い。

 “夏草の賦”読み終わったあとに、長曾我部元親ほど、この小説の題名に当てはまるものはないと思いました。夏の草の如き勢いで、一気に背を伸ばし成長するが、それも束の間・・・。まさに“つわものどもが夢のあと”。



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