ひめはぎのはな

踏青。翠嵐。蒼穹。凛然。…爽やか、山日和。by sanpoiwa1736

伊達政宗を奥州の覇者にした補佐役

2009-10-20 22:20:07 | 小説.六韜三略

・・・・・・片倉景綱(1557~1615)

 僅か五年で奥州六十六郡中、三十余郡を手中にした隻眼の十七代当主・伊達政宗。その補佐役として活躍し、秀吉の直臣を断った日の本一の傅役。第七回は近衛龍春の“片倉小十郎景綱 伊達政宗を奥州の覇者にした補佐役”(PHP文庫)です。

 奥州の覇者となった伊達家ですが、その道程は決して楽ではなく、薄氷を踏むこともしばしばでした。景綱は主君政宗の片腕として幾多の危機を救い伊達家を支え続けます。
 天正十三年の仙道人取橋の戦いでは、“鬼佐竹”と渾名される佐竹義重と蘆名家を主軸とする相馬・石川・白河などの連合軍三万余りの大軍によって、八千余りの伊達軍は窮地に追い込まれます。片倉勢は敵の首は取らず、仕留めることだけに専念し、景綱も獅子奮迅の戦いを続けます。そして、天正十七年。会津摺上原の合戦で宿敵ともいえる蘆名・佐竹勢を撃破します。これを機に“会津守護”蘆名氏は滅亡。伊達家は念願の会津の地を手にします。

 「陣中に景綱あり」と言われ、伊達家の名参謀として天下にその名が轟きます。


「世に仕えるのは嫌と申すのか」
「いえ、恐れ多くも某は主の病が目に移ったおり、目を抉りとった者にて、関白殿下に仕えることになれば、関白の目を抉り取らねばなりませぬ」
「なんと、そちが主の目を抉ったのか。政宗、ようも左様な真似を許したの」
「少々、見え過ぎたようにて、今は、ほど良く見えまする」
「さすが政宗じゃ。よき家臣を持っておるの。小十郎、そちは武士の鑑じゃ。こののちもいっそう忠勤に励むがよかろう」

(本文抜粋)


 秀吉によって会津は没収され、伊達家が米沢に戻ると、その会津には蒲生氏郷の後、越後の上杉景勝が転封されます。
 そして、関ヶ原の合戦。秀忠率いる徳川の主力を足止めにした信濃・上田城の戦いの他、九州では“石垣原の戦い”などが展開され、各地で局地戦が行われます。
東北でも“長谷堂の戦い”がありました。上杉家が旧領の越後を奪還するために山形の最上義光と争ったものです。このとき上杉家は百二十万石を賜っていましたが、所領は会津・佐渡・出羽庄内・置賜と分断されていました。
 伊達家は戦の直前、上杉家と和睦をしており、義光側の要請によって援軍を送りはしましたが、直接戦うことはしませんでした。上杉家の主力は2009年NHK大河ドラマ“天地人”の主人公・直江兼続です。もし和睦がなければ片倉景綱VS直江兼続の世紀の対決が実現したかもしれません。



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