ひめはぎのはな

踏青。翠嵐。蒼穹。凛然。…爽やか、山日和。by sanpoiwa1736

鬼神をも欺くと謳われし猛者“鬼左近”

2010-03-21 22:20:10 | 小説.六韜三略

・・・・・・嶋左近( ? ~1600?)

 第十回は、近衛龍春の“嶋左近”(学研M文庫)です。
「三成に過ぎたるものが二つあり、嶋の左近に佐和山の城(瀬田の橋)」と詠われる嶋左近丞清興は大和国・筒井家の家老です。ちなみに右近は松倉重信。二人は筒井家の右近・左近と呼ばれ、家のために奔走します。
左近は城主・順慶の死後、後継ぎの定次に見切りをつけ、秀吉の直臣となります。石田三成の寄騎となって小田原討伐に参加。政務は三成自身が行い、戦時は左近が受け持つことになります。

 秀吉死後、五大老筆頭の徳川家康が天下を握らんとします。その家康を討つべく警護の少ないときを狙って、左近は兵を挙げますが上手くかわされてしまいます。

慶長五年。家康は上杉討伐のため北進。これを機に大将・毛利輝元、副大将・宇喜多秀家率いる西軍が蜂起します。家康は西軍の蜂起を待っていたかのように、矛先を変えて西進。敵方の城を次々と落としてゆきます。
西軍は東軍の西上を阻止する形で関ヶ原に陣取ります。そこへ、福島正則隊を先頭に続々と東軍が着陣し相対します。天下分け目の戦いです。石田隊に迫るは黒田長政隊五千四百。


「よし、者ども、かかれ!」
左近は漆黒の駿馬に跨り、軍配を黒田勢に向かって振り下ろした。
「うおおーっ!」
激とともに、左近が指揮する石田兵は餓えた野獣にも似た雄叫びをあげる。そして、左近ともども竹矢木を出て、敵に向って砂塵をあげる。
「我は石田治部少輔三成が家臣・嶋左近丞清興なり。我と思わん者はかかってまいれ」
真一文字に黒田勢に突撃した左近は、大音声で叫ぶ。

(本文抜粋)


 秀吉による小田原討伐が行われます。北条方の緒城を次々落とす中、忍城攻略は三成に任され、水攻めを下知されます。地理的に水攻めの適さぬなか、大々的に譜政を行う最中、北条家は降伏。結果、忍城を攻略するまでには至りませんでした。しかし、水攻めの困難を知りえる忍城攻めに同陣した諸将は、関ヶ原の戦いで三成に味方します。

 奉行であるがため戦下手といわれる石田三成ですが、関ヶ原の戦いでは大谷吉継・宇喜多秀家・小西行長などとともに獅子奮迅の働きで一時、東軍を押し返します。その中心には嶋左近がいました。


日本海域の治安維持

2010-03-17 22:50:04 | 安逸.一陣の風

・・・・・・あそ型巡視船「はくさん」

戦勝気分で金沢港に寄りました。
っていうか、海上保安庁の巡視船が見えたから寄ってみました。



金沢海上保安部が保持する高速高性能大型巡視船「はくさん」です。
40mm機関砲を搭載しています。

大野港近くに停泊していました。立入り禁止区域なので、これ以上近寄れません。
海猿さん達の姿も見えません。

海猿さ~ん、海猿さ~ん。



はぁい?

ゆうくんです。未来の海猿???
今はシンケンジャーに夢中です。

金沢海上保安部は第九管区海上保安本部に所属します。
第九管区とは、海上保安庁の管区海上保安区の一つで、新潟県に本部があります。

北陸から東北地方沿岸の日本海及び新潟・富山・石川・福井・長野の各県を管轄。
海域侵犯・漁業監視・人命救助・原子力発電所周辺の警備など、多岐にわたって国境海域の治安を日々守ってくれています。


2010. 3.14 


上杉対織田の戦い「手取川の夜戦」

2010-03-16 22:10:08 | 城砦.旌旗堂々

・・・・・・手取川の戦い(1577年)

白山市美川にある呉竹文庫。
ここの駐車場に「手取川の戦い」を記す石碑があります。





「上杉に逢うては織田も名取(手取)川
           はねる謙信逃げるとぶ(信)長」
当時、京などで流行った狂歌です。


天正四年、将軍足利義昭の命によって、中国の毛利、大坂の本願寺、越後の上杉などによる信長包囲網が築かれます。加賀では石山本願寺に呼応した一揆勢によって織田方の大聖寺城が包囲され、その騒乱に乗じて上杉謙信が動き出します。

翌天正五年八月、織田信長は柴田勝家を大将に据え、丹羽長秀、滝川一益、佐々成政、佐久間盛政らを派遣。さらに羽柴秀吉、前田利家を後陣につけた四万八千(諸説あり)の軍勢で一揆勢の守る天神山、居振橋の砦を撃破します。
その他、参戦した武将は安藤守就・稲葉一徹・氏家直通・金森長近・不破光治など。。。

しかし、上杉勢力圏内に入るにあたって、軍議の席で秀吉と勝家が衝突、秀吉は兵をまとめて長浜城へと帰ってしまいます。

それでも織田軍は一揆勢を蹴散らしながら北進し、ついに手取川を渡り、水島(旧松任市)にて着陣。ここではじめて、上杉軍が七尾城(九月十五日)、末森城(九月十七日)を落とし、松任城に入城していることを知ることとなりました。その数三万(諸説あり)。精強な上杉軍に、正面から戦って勝てる相手ではないとみた、勝家は撤退を命じ、九月二十三日(1577.11/3)夜陰に生じて退却を開始します。
謙信は物見を放ち、織田軍の情勢を知るや追撃命令を下し、ここに「手取川の戦い」が開始されます。織田軍は上杉軍の進撃に浮足立ち、折しの増水も重なり、一千余名が討ち取られる大敗北を喫しました。



上杉軍は勢いに乗って大聖寺城を落とし、さらに南下。勝家は金津城にて陣容を立て直しますが、なおも北ノ庄へと軍を下げます。上杉軍は丸岡城手前まで進軍しましたが、九月二十六日、謙信は七尾城へと兵を戻しました。



この当時、七尾城は堅城として名を轟かせていました。上杉謙信の強さは誰もが認めるもの。その七尾城が、上杉軍によって落とされたことで、織田軍の戦意喪失につながったようです。




近くには平成の名水百選「白山美川伏流水群」(環境省2008年)もあります。

2010. 3.14 


石動町を見下ろす白馬山

2010-03-14 22:10:07 | 城砦.旌旗堂々

・・・・・・今石動城山(186m)

小矢部市石動町の城山へ出かけました。公園として整備されています。



公園にある「平和の礎」と刻まれた神武天皇の銅像。
ほかに、十返舎一九の歌碑。秩父宮様の記念碑などがありました。





梅の花が咲いています。

今石動城山は舗装された道を登っていきます。車も通れます。



県民による森づくり提案事業による、櫓風の展望台が二つ建っていました。



小矢部川の流れとクロスランドおやべのタワーが見えます。
あいにく、山並みは霞んで見えません。

天正十三年、前田利家が越中攻略の前線基地として白馬山に城を築き、利家の弟・秀継に守らせました。同年、秀継は木舟城に移り、その子・利秀が守りました。


2010. 3.14