ひめはぎのはな

踏青。翠嵐。蒼穹。凛然。…爽やか、山日和。by sanpoiwa1736

聖剣と仰がれた上州の一本槍

2010-12-22 22:20:14 | 小説.六韜三略

・・・・・・上泉信綱(1508~1582)

上州の黄斑とよばれた長野業政らとともに、力衰えた関東管領・上杉憲政を支えるべく奔走する上泉伊勢守信綱。
第十四回は、後に聖剣と仰がれ新陰流の創始者として名を馳せる上泉信綱を描いた、岩波正太郎の“剣の天地 上・下”(新潮文庫)です。

ときは天文二十年。小田原を発した北条氏政軍は関東管領・上杉憲政の本城・平井城へと攻め寄せます。耐え切れず憲政は長尾景虎を頼って越後へ。

景虎軍は関東へ進出、平井城を奪い返すとともに、毎年のように上州に出陣。厩橋城を本拠と定め関東平定に乗り出します。

しかし、天文二十四年。北条軍によって厩橋城を落とされ、伊勢守の居城・大胡城へも手を伸ばします。伊勢守は城を守るため、あえて戦わずに平井城へと退却。

上杉景虎の関東出陣を待って、大胡城奪取にかかります。
伊勢守は只一騎にて突撃。飛び込んだところへ上泉軍が突き入り、支えきれなくなった北条軍は城を捨て、本陣の厩橋城へと退却。伊勢守は大胡城を奪い返します。


永禄元年。武田信玄率いる一万三千の大軍が、「上州の黄斑」とよばれた長野業政の本城・箕輪城へと攻め寄せます。手勢を率いて駆けつけた伊勢守は武田軍に打撃を与え、「上州の一本槍」と、名声を得ます。

しかし、小幡信貞が武田家と誼を通じ、その武田軍の侵攻を食い止めた長野業政も没し。
永禄六年。ついに、信玄は箕輪城攻略へ・・・。

上泉伊勢守は家督を息子・常陸介秀胤に譲り隠居。剣の道を極めるため、一介の剣士となって諸国を巡り、柳生の里にて但馬守宗厳と出合います。伊勢守は柳生宗厳の品格と純朴心情、丁寧なあつかい、剣法に対する深い関心に好意を持ち、新陰流の印可状を彼に授けます。


「兵法は、人のたすけに遺すものではござらぬ。進退ここにきわまったとき、一生一度の用に立てるものでござる。
 なれば、さのみ、世間の目に能く見られずともよろしい。たとえ、仕なしはやわらかに、なるほど人の目に上手に見えようとも、心の奥底に、いささかなりとも正しからぬところがあらば、すべては無用のものとなり果てよう。
 仕なしは、たとえ見苦しく、初心のように見ゆるとも、火炎の内に飛び入り、磐石の下に敷かれても、くじけぬ心こそ、わが心のたのむ主でござる」


(本文抜粋)


柳生宗厳は、その後「柳生流」を創始。徳川家康と対面し、子の宗矩とともに徳川家に仕えます。宗矩は二代将軍・秀忠、三代将軍・家光の兵法師範代をつとめ、重臣として活躍。信任も厚く、総目付に就任します。

伊勢守は、
「上州十六人の槍」上野国の十六人のうち武勇の人。
「上州の一本槍」上野国の武勇の第一人者。
仰がれました。
日本第一流と天下が認めた新陰流は、剣道の基盤となっています。竹刀を発明したのも上泉伊勢守信綱とありました。

信玄は、伊勢守の兵法を惜しみ、我が武田家に仕官してくれることを強く望みますが、拒否されてしまいます。それでも、伊勢守に「信」の字を与え、伊勢守はこれ以降、上泉「秀綱」から「信綱」へと名を改めました。


「剣の天地」只の戦国物の小説の枠を越え、心の奥の澱み、ぬるま湯での長湯といった、何か「変わりたいけど・・・」気持ちがよくて抜け出せない、そんな日常から、物事の捉えかた、そのものが変わるきっかけになるような・・・。



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