ひめはぎのはな

踏青。翠嵐。蒼穹。凛然。…爽やか、山日和。by sanpoiwa1736

青空と山

2011-02-20 22:00:00 | 安逸.一陣の風

いい天気。

午前に用事があって、おまけに背中に張りもあったので、登山はパス。

でも、勿体ないので友達の車でドライブを楽しみました。

まぁ、ドライブと言うか、めぼしい山の取り付き口と雪の状況確認です。



三村山です。山の向こう側が瀬女高原スキー場のゲレンデです。

旧中宮温泉スキー場の駐車場から撮りました。
ここの駐車場は、縦横無尽に除雪してあって、まるで迷路みたいになってました。

尾添川の向うが国道360号線。
橋を渡っていると、斜面の中腹にカモシカを発見。

友達に教えてんのに・・・わからんかなぁ。

写真撮ったけど、ズームしてもわからんぐらいのちっちゃい点だけ。
直線距離で300mぐらいかな。

久しぶりにアニマルアイを使っちゃいました。

さらに、スノーシェッドを歩く動物を発見。
車で移動し確認すると、お猿さんでした。

スノーシェッド横の谷から這える木の枝に、五・六匹、日向ぼっこ。
雪の上は冷たいもんね。



白山一里野温泉スキー場から見た山毛欅尾(ブナオ)山です。



こっちは、中宮山。空、青っ!!!

山行ってたら、日焼けしまくりだね。


平成二十三年一月豪雪?

2011-01-31 22:20:00 | 安逸.一陣の風

除雪。除雪。除雪。

疲れた~。

昨日の昼に雪どかししたのに、二時間後には、跡形も無く、おんなじ風景に戻ちゃってた。



そして今日。うちの前は、二メートルの壁。

深夜も除雪車がゴーゴー働いてました。

その都度、玄関前に雪の壁。
セッセ、セッセと向かいの空き地へ。



近くの交差点です。
そこら中で、スキー出来そう。


昭和三十八年一月豪雪。
四八豪雪。
昭和五十二年豪雪。
五六豪雪。
五九豪雪。
六一豪雪。

そして・・・平成十八年豪雪。

なんか、命名されそう。

ちなみに、気象庁が命名したのは、昭和三十八年一月豪雪と平成十八年豪雪です。


大雪に悩まされ・・・。

2011-01-26 22:15:32 | 安逸.一陣の風

すっごい雪。

腰に不安があったので、登山を控えていたのに、
雪どかしで、疲労困憊。腕も上がらんし・・・。

1902年の1月25日、北海道旭川で日本最低気温を観測。
気温マイナス41℃。

スーパーでバイトしてた頃、-20℃の冷凍庫に入ったことあるけど、どんなだったか?


1930年1月27日。「単独行の加藤」こと、加藤文太郎が厳冬期の槍ヶ岳単独登頂を成しあげました。

兵庫県の浜坂(日本海側)に生まれ、神戸の神港造船所に勤め、神戸の町、山を問わず歩き回るとともに、単独で神がかり的な登頂を成しあげていきます。

新田二郎の「孤高の人」。いい本です。


師走の平凡な一日

2010-12-14 21:50:07 | 安逸.一陣の風

なかなか、山へ行く機会が訪れません。

あぁ~あ、・・・山に行きたい。

その代わり、年賀状のデザインは、ほぼ完成。
あとは、印刷してみて細かいところを修正していくだけとなりました。


こっからは、ゲームの世界。

会津の蘆名盛氏・盛隆二代に渡って、ついに天下統一が果たされました。

武田、織田、島津、里見、浅井、尼子(西日本を制し、天下の情勢がほぼ決まる)、蘆名。
ときたので、次は・・・。

う~んと、陶家です。
まずは、名門・大内家から独立しないと・・・。


陶家は・・・
天文九年。毛利家の吉田郡山城が尼子軍に包囲されます。
天文十年。毛利家からの要請に応えた大内家は、尼子軍を破り、陶晴賢もこの戦で手柄を挙げます。

天文十二年。勢いのまま大内軍は尼子家の月山冨田城を包囲。

しかし、進展がないままときを過ごし、遊撃軍に補給路を断たれるなど、滞在もままならず退却を開始。尼子軍の追撃によって、大内家当主義隆の養嗣子・時持を失なうなど、大内軍は大損害を受けてしまいます。

これ以降、大内義隆は遊芸に勤しみ、文治派の相良武任を重宝するようになり、陶晴賢の諫言は聞き入れられず、遠ざけられるようになります。

天文二十年。陶晴賢は、大内譜代の杉家や内藤家などの他、毛利家の支援を得てクーデターを起こします。
大内義隆を自害に追い込んだ晴賢は、豊後大友家の当主宗麟の弟・晴英(大内義長)を大内家当主にすえて、晴賢自らが実権を握ります。

しかし、厳島にて毛利軍に敗れ、晴賢は自刃して世を去りました。ときに天文二十四年(1555年)。大内領は毛利家によって奪われ、名門大内家が滅びるとともに、毛利家は中国の覇者へと駆け上がっていきます。

主家殺しの大義名分を掲げた毛利家に敗れはしたものの、陶晴賢は武断派でありながら、右筆の能力も一級品。老練な毛利元就がお隣にいただけに残念な結果になっちゃいました。
くぅ~、憎き、毛利元就。
・・・以上。


陶家のお城は、周防に三つ、長門に二つ。
周防と長門は、主家大内家の築山館によって分断され、長門の二つも分断されちゃっているので五つのお城が三分割。

主家の要請で尼子家攻め。
その間、長門の渡川城・青景城の守備力を上げるため、増兵し兵糧を運び入れます。

主家が豊後大友家と不戦同盟を結び、豊前に展開していた武将達が、石見の尼子領に迫ったときを狙って・・・。

1550年8月。大内家から独立。



長門を平定しちゃいました。

今では、九州は筑前・筑後で龍造寺家、同じ筑後で下蒲池家と九州最大勢力の島津家と戦の最中。島津家とは豊後・日向でも交戦中です。
豊前口から吉川元春軍団、豊前口から杉原盛重軍団が攻め込んでます。

四国も残すは阿波と土佐だけ。こっちは小早川隆景軍団に任せてます。

陶家本隊は、丹後で一色家、丹波で山名家、摂津で三好家・池田家、和泉で河内畠山家と戦ってます。

陶家と一二位を争う勢力だった河内畠山家を破り、1566年2月現在、六百万石に迫る陶家に迫るは、三百万石を越え、第二勢力に登りつめた美濃斎藤家。丹波でぶつかりそうです。

ちなみに、三位は今川家、四位は島津家、五位は僅差で佐竹家、六位は長尾上杉家です。

ここまで同盟はもちろん従属、臣従大名をつくらず、志願も全て拒否してきたから、周りはすべて敵。武将の頭数が足りず、斎藤家と争うとなると、かなり苦戦しそうな状況です。



金沢寄港の海王丸

2010-10-25 22:50:06 | 安逸.一陣の風

・・・・・・海の貴婦人・海王丸

前日、山へ行ってきました。
記事にするには、チョッと時間がかかりそうなので後回し。

本日は、エムザに寄って買い物。
北海道展もやってたので、試食しまくり。。。
たこキムチ、イカ昆布、明太子・・・うまい。

最後にコロッケ買って金沢港へ。





日本が誇る帆船、海王丸です。
一般公開されてるので乗り込んでみました。



ずんらぁ~って並んでます。




やっと乗船。



制服が凛々しい。



地図がひろげられています。



無線室。



無線室のうしろはこんなふう。

所々に訓練生が立ってるので、いろいろと質問できます。

訓練生は今月から乗船し、三ヶ月ほどで下りるみたいなことを言ってました。



マグネットコンパス。



舵輪。帆を拡げ、風の力で走るときに用います。





椰子の実の皮で磨いてるそうです。



訓練生の方に学校名を聞くと、愛媛の波方海上技術短期大学校と言ってました。

もう一つは岩手・・・。
混じってるみたいです。

調べてみると、岩手県には独立分政法人海上教育機構の国立宮古海上技術短期大学校がありました。

東京と神戸の二つの大学の他、商船高等専門学校、海員学校が訓練のため乗り込みます。一般人でも体験航海できるそうです。





手前の二つは揚錨機。碇を巻き上げます。

オレンジの人は訓練生です。

他の訓練生は、船内で実習中と聞きました。
明日は休みだそうで、船から下りることも出来るそうです。



救命艇です。



練習船海王丸 独立行政法人 航海訓練所
TRAINING SHIP “KAIWO MARU”





北海道展で買ったコロッケを食べながら、帰途につきました。


2010.10.24