ひめはぎのはな

踏青。翠嵐。蒼穹。凛然。…爽やか、山日和。by sanpoiwa1736

神岡市街を見下ろす展望の嶺

2009-02-28 22:07:00 | 登山.歓天喜地
・・・・・・大洞山(1348.7m)

山頂付近で霧氷が見られました。
青空から、その氷がサクサクと落ちてきます。





山頂南斜面を少し下ると大展望が待っていました。
御嶽・乗鞍・焼・霞沢・穂高・笠・槍・双六・三俣・黒五・北ノ俣・薬師。
青空の下に白き嶺々がくっきりと浮んでいます。



こちらは乗鞍岳。
別の地点からは剱・立山、そして白山の姿も・・・。



真ん中に笠ヶ岳。右に穂高、左に槍が見えます。。。



船津トンネル神岡口から登山道があります。
山道を登り大津神社に出て、左の作業道を進むと登山口です。
鉄塔横を通ると笹が茂って道を隠していますが、突っ切ると顕著な道になり、神岡市街を左後方に見ながら登るようになります。
何となく平坦になって尾根らしきところで斜面に取り付きます。
斜面にはロープが垂らしてありました。
ここから細かなジグザグで登ってゆきますが、途中何度か横道が現れます。
横道の方が広く、そちらに吸い込まれてしまいそうになりますが、グッと我慢して、真っ直ぐ登ります。斜面上部に目印となるものが見てとれます。
天狗の岩棚を過ぎると残雪が続くようになりました。


2009. 2.28  船津トンネル登山口(0:05)鳥居(0:05)大津神社山門(0:35)天狗の岩棚(0:55)ブナ美林(0:40)大洞山(0:30)天狗の岩棚(0:15)大津神社山門(0:10)船津トンネル登山口

神岡のシンボル神岡城

2009-02-23 22:10:02 | 城砦.旌旗堂々
・・・・・・神岡城

 古畑山から下山し、時間もあったので、二十年ぶり?に神岡城へ寄りました。
好きな武将の一人(一番ではないですけど・・・。十傑には入るかな?)、武田の臣・山県昌景ゆかりの城でもあって、神岡のシンボルです。



しか~し、冬期間閉鎖中で、門の中には入れませんでした。
まぁ、天守に上る気はないんで、いいんですけど・・・。

 ここにあるのは、昭和四十五年に建てられた模擬天守です。
もともと天守があったのかも疑問です。
西側に階段が付けられているので、下町へと下りてみました。
狭い上に、曲がりくねった道。敵が容易に城へと近づけないようになっていました。


2009. 2.22  

新雪踏みしめ数河の無名峰へ

2009-02-22 22:06:00 | 登山.歓天喜地
・・・・・・古畑山(1085.9m)

国道41号の数河峠から神岡側へ、S字カーブを下ったすぐの駐車場から、林道を利用して登りました。





昨年の同じ時期に偵察で訪れているので、地形はわかっていたつもりでしたが、一つ取り付く尾根を間違えました。



でも、これが幸いでした。飛騨ハイランドスキー場から続く稜線に出ると、御嶽山を眺めることが出来ました。
稜線には真新しい国土調査のピンクのリボンが結ばれた木が続いています。



自然が創り出した雪の造形美、「9」の文字が・・・。



山頂からの展望は北側だけです。
その北側は杉の植林地ですが、まだ幼木のため流葉山から高山まで望むことが出来ました。
雪から切り株が顔を出していたので、刈り払いされているのかもしれません。

帰りは本来登る予定だった尾根を下りましたが、急なところもあって、新雪となると難儀したかもしれません。
数河峠から登っても時間に大差はありません。逆にわかりやすいかもしれません。


2009. 2.22  林道入口(0:30)三つめの橋分岐(0:35)稜線(0:15)古畑山(0:10)林道(0:20)林道入口

観音堂に粉雪舞う

2009-02-21 22:05:00 | 登山.歓天喜地
・・・・・・遣水観音山(402.3m)

登山口には、平成名水百選に選ばれた霊水が湧き出していて、水汲みの車がひっきりなしにやってきます。



その霊水の裏手から登ります。



プラスチックの階段を登りきると一合目の標識。標識は山頂まで続いていて、いい目安になりました。



五合目で観音堂に到着です。その観音堂の後ろには、山頂が見えます。
ちょうど雪が降ってきました。



山頂には展望台があって、眼下に手取扇状地が広がります。今日は霞んでいました。
陽射しが期待できず、気温も低いので、とっとと山を下りました。


2009. 2.21  登山口(0:15)観音堂(0:15)遣水観音山(0:10)観音堂(0:10)登山口

抜群の槍働きで武名轟く無骨な勇士“笹の才蔵”

2009-02-20 22:20:06 | 小説.六韜三略

・・・・・・可児才蔵(1554~1613)

 槍の又左(後の前田利家)、槍の勘兵衛(渡辺勘兵衛)、槍の又兵衛(後藤基次)、さらに嶋左近など、戦国の世において槍働きで名を馳せた武将は数知れず。その中でも群を抜いているのが「槍の才蔵」こと可児才蔵です。第六回は志木沢郁の“可児才蔵”(学研M文庫)を紹介したいとおもいます。

 斎藤龍興の下で初陣を果たし、柴田勝家・明智光秀・織田信孝・三好信吉(羽柴秀次)・前田利家に仕えますが、そのたびに主家がことごと滅び、また、一本気な性格から喧嘩沙汰の末、退転することも・・・。ですが、抜群の槍働きとともに、笹の指し物と討ち取った首に笹の葉を噛ませたことから“笹の才蔵”として広くその名が知れわたり、ついに、賤ヶ岳の戦いで武功を上げ「七本槍」と秀吉に賞賛された福島正則という理想の主を得ます。その後、才蔵は、秀吉による小田原討伐に参加した正則のもと、北条家の韮山城攻撃において先頭を切って活躍し、主君正則からお褒めを賜ります。


特に才蔵、と正則は一際声を張った。
「言葉もないほど見事だったで」
はあっ、と才蔵は平たくなった。
「だが、無茶はすなよ。後ろが続かぬ時は、少し考えろ」
しかつめらしく説教はしたものの、正則の声は笑っていた。

(本文抜粋)


 さらに、東軍に与した関ヶ原の戦いでは、十七もの首を掲げ家康に激賞されます。 


「それがしは、生の笹竹を背負うて指し物に致しておりまするゆえ、その枝をむしっては咥えさせ、むしっては咥えさせるのでござる」
「それゆえこの者を、皆が“笹の才蔵”と申しまするわ」と正則が割って入った。
おお、と家康は膝を軽く叩いた。

「“笹の才蔵”な・・・・・・」


(本文抜粋)


 小牧・長久手の戦いでは、秀吉軍は局地戦で徳川軍に破れます。三好信吉を大将とする遊軍が家康の留守を突こうと岡崎に向いましたが、露見してしまい、池田恒興・森長可といった勇将を失ってしまいます。
 この時、三好信吉に仕えていた才蔵は、馬を欲する主君の信吉に対して「雨降りの傘」とだけ言い残し、そのまま通り過ぎます。馬を駆って槍働きする才蔵にとって、馬はどうしても必要なもの。主を主と思わぬ無骨な精神が可児才蔵を支えています。