ひめはぎのはな

踏青。翠嵐。蒼穹。凛然。…爽やか、山日和。by sanpoiwa1736

天下取りの野望に燃えた文武両道の将

2009-12-20 22:20:08 | 小説.六韜三略

・・・・・・蒲生氏郷(1556~1595)

 細川忠興、蒲生氏郷、高山右近。この三人は文武両道の将として真っ先に名前が挙がるかと思います。三人とも千利休の高弟として利休七哲に名を連ねます。今回はその一人で“近江商人育ての親”といわれる蒲生氏郷を紹介したいと思います。第八回は竜門冬二の“蒲生氏郷”上・下(人物文庫 学陽書房)です。

 近江日野から信長の人質となって少年期を過ごし、その信長に非凡な才能を見込まれ、信長の娘・冬姫を娶ります。さらに織田家第一の家老・柴田勝家の与力となり、先鋒として武功を高めていきます。
ときは天正十年。本能寺の変。明智光秀の勧誘を拒み、二万の兵によって城を包囲されてしまいます。対する蒲生軍一千五百。籠城して幾日、秀吉による「中国大返し」が展開されます。


「羽柴軍が山崎で明智軍を全滅させ、光秀の首を取った」
というしらせが、十四日になって日野城にもたらされた。
間違いのない、たしかな情報であった。
「羽柴秀吉・・・・・・」
氏郷は声もなかった。秀吉の名だけがただ頭の中でぐるぐると激しく回転した。

(本文抜粋)


 氏郷に転機が訪れます。羽柴秀吉VS柴田勝家の賤ヶ岳の戦いです。この合戦を前にして、秀吉側に与することとし人質を出します。後に秀吉の側妾となる三条殿です。これによって蒲生家は日野六万石から伊勢十二万石へと加増されます。そして、天下統一を果たした秀吉は、奥州の要ともいうべき会津の地に四十二万石で氏郷を据えます。伊達政宗を警戒しての押さえとしました。また、関東の徳川家康を背後から牽制する目的もあります。しかし、秀吉自身が“蒲生氏郷”を恐れて遠く会津に移封したのもまた事実です。

 先見性に秀で、信長の後継者と自負する氏郷が、本能寺の変、賤ヶ岳の戦いと違った道を歩んでいれば・・・。日野の小さな大名でも時代を左右しかねない立場にあったことは事実です。

 転封に伴って、黒川の地を若松と改めます。現在の会津若松市です。若松とは近江日野の地名から名付けられたとあります。また、それ以前の領地、伊勢でも松阪と名付けています。
移封後は奥州で一揆が頻発します。伊達政宗の煽動によるものです。さらに、九戸政実による「九戸の乱」です。これらの鎮圧によって領地は九十二万石になり、徳川、毛利に次ぐ大名へとのし上がりました。

 戦国の世の流れと並行するように、西野仁右衛門という一人の行商人が登場します。この人物を通して、近江商人の基礎ともいうべき“自分よし・相手よし・世間よし”の目的が出来上がってゆく工程が描かれています。

 金沢市の中心には“金沢の台所”と呼ばれる近江町市場があります。これは近江商人が拓いた町であり、現代になっても近江の活気が息づいています。



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