・・・・・・手取川の戦い(1577年)
白山市美川にある呉竹文庫。
ここの駐車場に「手取川の戦い」を記す石碑があります。
「上杉に逢うては織田も名取(手取)川
はねる謙信逃げるとぶ(信)長」
当時、京などで流行った狂歌です。
天正四年、将軍足利義昭の命によって、中国の毛利、大坂の本願寺、越後の上杉などによる信長包囲網が築かれます。加賀では石山本願寺に呼応した一揆勢によって織田方の大聖寺城が包囲され、その騒乱に乗じて上杉謙信が動き出します。
翌天正五年八月、織田信長は柴田勝家を大将に据え、丹羽長秀、滝川一益、佐々成政、佐久間盛政らを派遣。さらに羽柴秀吉、前田利家を後陣につけた四万八千(諸説あり)の軍勢で一揆勢の守る天神山、居振橋の砦を撃破します。
その他、参戦した武将は安藤守就・稲葉一徹・氏家直通・金森長近・不破光治など。。。
しかし、上杉勢力圏内に入るにあたって、軍議の席で秀吉と勝家が衝突、秀吉は兵をまとめて長浜城へと帰ってしまいます。
それでも織田軍は一揆勢を蹴散らしながら北進し、ついに手取川を渡り、水島(旧松任市)にて着陣。ここではじめて、上杉軍が七尾城(九月十五日)、末森城(九月十七日)を落とし、松任城に入城していることを知ることとなりました。その数三万(諸説あり)。精強な上杉軍に、正面から戦って勝てる相手ではないとみた、勝家は撤退を命じ、九月二十三日(1577.11/3)夜陰に生じて退却を開始します。
謙信は物見を放ち、織田軍の情勢を知るや追撃命令を下し、ここに「手取川の戦い」が開始されます。織田軍は上杉軍の進撃に浮足立ち、折しの増水も重なり、一千余名が討ち取られる大敗北を喫しました。
上杉軍は勢いに乗って大聖寺城を落とし、さらに南下。勝家は金津城にて陣容を立て直しますが、なおも北ノ庄へと軍を下げます。上杉軍は丸岡城手前まで進軍しましたが、九月二十六日、謙信は七尾城へと兵を戻しました。
この当時、七尾城は堅城として名を轟かせていました。上杉謙信の強さは誰もが認めるもの。その七尾城が、上杉軍によって落とされたことで、織田軍の戦意喪失につながったようです。
近くには平成の名水百選「白山美川伏流水群」(環境省2008年)もあります。
2010. 3.14
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