・・・・・・佐竹義重(1547~1612)
第九回は、近衛龍春の“佐竹義重 伊達も北条も恐れた常陸の戦国大名”(PHP文庫)です。
常陸守護でありながらも治めるのは北半国のみ。対する北条勢は着々と版図を拡げ常陸へと迫ります。永禄十二年。手這坂の合戦にて小田勢を破りますが、関東には一癖も二癖もある大名が小さいながらも群雄割拠しており、さらなる敵が常陸を虎視眈々と狙います。それに伴い、義重も北へ南へと奔走する日々が続きます。
元亀二年。北条氏政率いる二万の大軍が下総に侵攻します。下妻城の多賀谷政経は籠城一転、決死の覚悟で打って出ます。突然のことに北条勢は崩れ去り、本隊が陣を置く岩井の地まで後退させられます。さらに呼応した安房の里見氏が、氏政の留守を突いて小田原に向ったという噂が流れ、これによって北条勢は退却を開始します。
「左様か。北条が退いたか! ものども続け!」
知らせを受けた義重は怒号すると、配下の者は上三川城内で雄叫びをあげた。
「うおおーっ!」
・・・・・・(中略)
義重は、まっ先に北条勢に躍り込み、途端に七人ばかりを切り捨てた。漆黒の甲冑は瞬時に朱に染まる。しかし、それだけでは飽き足らず、太刀が届く敵を次々に血祭りに上げていった。
「退け! 逃げよ。彼奴は人ではなし。鬼じゃ!」
(本文抜粋)
元亀三年の暮れ、またしても北条氏政率いる二万の大軍が北進します。迎え撃つは佐竹・宇都宮連合軍他、北関東勢五千。多攻の戦いです。義重はまたも北条勢を散々に打ち破り敗走させます。
天正十三年には、会津に侵攻した伊達軍に対して、義重を大将とする佐竹軍に結城・相馬・二階堂・蘆名・大内他、会津勢が討伐に向います。人取橋の戦いです。この戦いで連合軍は政宗を追い詰めますが・・・。
関八州制覇を目論む北条家、関東管領・越後の上杉家、さらには甲斐の武田家が覇を競い合った関東。その大国に翻弄され続ける関東の緒将は、お家存続のため、敵になったり味方になったりと忙しく鞍替えします。それでも、義重は大国にも対等に渡り合って戦国の騒乱期を戦い抜き、ついには常陸統一を果たします。
北条軍を潰走させた下妻の追撃戦から義重は「鬼佐竹」「坂東太郎」と呼ばれ諸国から恐れられます。「坂東太郎」とは、関東を流れる利根川のことで、昔から暴れ川として有名です。義重をこの暴れ川とだぶらせて畏怖しました。
なお、「坂東太郎」の他に、九州・筑後川は「筑後次郎」、四国・吉野川は「四国三郎」と呼ばれています。
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