黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

新田勢も越えてきた(?)駒ころばし峠

2019-09-19 21:48:58 | 桐生川紀行

最近、ひめちゃんは獅子丸と、朝のお散歩に出ることが多いです。

今日は、堀之内を西に出ます。

あれ、向こうに浅間山がみえます

後ろから、小次郎パパ&タバサねーちゃんののこねーちゃんが、おとうさんを連れてやってきました。

みんなで、諏訪神社の向こうの高台を目指します。

榛名山&浅間山が久しぶりに見えます

赤城山もすっきりと姿を見せています

左折し、山上城跡公園の南を通って帰りました

 

 

米沢薬師からの帰りに、駒ころばし峠を確認してきました

桐生川からはちょっと離れますけど、桐生佐野氏関連の史跡()なので、カテゴリーは桐生川紀行でいきます

 

県道227号線を市内に戻ります。

途中で、桐陽台団地の表示で、左折します。

たしか、団地の一番南に「駒ころばし峠」の菱カルタがあったような記憶があります。

ひたすら南を目指します。

 

坂道の途中です

佐野からの援軍がここまで到着したとき、柄杓山城(桐生城)落城の知らせが届いた。13人の大将は引き返すこともできずに、馬を谷底に落として自刃したという。

谷底は見えませんでした

でも、馬なら這い上がってきそうな雰囲気です。

ここは峠で交通の要衝だったのです

 

西側です。

 

東側です。

この道を、佐野から援軍がやって来たというでしょうか?

 

 

ところで、落城の日に、佐野からの援軍がここで自決した話はどこに原本があるのでしょう?

 

『桐生老談記』には、

去る程に、新田勢うんかの如く押し来たり、藤生紀伊守を大将にて、~(中略)~、境野原に押し寄せ、先陣と三百六十騎、駒ころばし坂を超えて、

とあります。

桐生城落城のあの日、新田勢もここを通ったのです

渡良瀬川の南は新田(由良領)で、ここに来る途中に敵対勢力はありません。

佐野から来るには、由良氏から養子が入っている長尾氏がいます。

「どうぞお通りください。」なんていうはずはありません。

 

北の方を望みます。

あのかすんでいる山の辺りで、戦いが行われたのでしょうか?

この団地の北にある、宇都宮神社を通って帰ります

 

 

 

 

 

 

 

 

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くらみ沢下流の米沢薬師

2019-09-18 20:18:36 | 下野国

夕方、久々に、ひめちゃんの両親は連れだってお散歩しました。

七海ママの発情が長引いていて、小次郎パパがラブラブだったのです。

まだ、ちょっと心配ですけど、気をつけてお散歩です。

上機嫌で帰ってきました

 

 

くらみ沢で討ち死した人々の供養塔があると聞いて、数年前に米沢薬師を訪れました。

久しぶりの再訪です。

細い、細すぎる参道です

前回は、少し離れた空き地のような所に駐車させてもらいました。

そばの家のおじさんによると、「昔は、祭りには、とても賑わった。坊さんは鶏足寺から来ていた。」ということでした。

今回は、この路地をなんとか車で入りました。

薬師堂の前、舗装の最後まで行きます。

それにしても、日本三大米沢薬師って?

厄除けの御利益があるのですね

サルスベリが満開です

 

サルスベリの陰にお地蔵様です

 

お堂の脇に説明板です。

「ご本尊の薬師如来は、平安末期から鎌倉時代初期の造像である」とあります

 

お堂の向拝には龍がいます

かなりリアルな立体的造形です

 

ご本尊様に参拝です。

隙間からお姿を拝ませてもらいます

 

 

長い年月、人々の営みを見つめてきたのですね。

くらみ沢の戦いも、御覧になっていますか?

くらみ沢方面から、膳備中守の案内で小俣城を攻めようとしていた越後勢は、突然の暴雨風雨と城からの投石で、たくさんの死者を出したということです。

特に案内として先頭を登ってきた膳備中守の家中は残らず死んでしまったともいいます。

ここの少し上流で、そんなことがあったのです

 

和尚さんたちのお墓の向こうに、五輪塔群があります。

反対側から

数えてみませんでしたけど、かなりの数です

静かに手を合わせて合掌です

 

 

五輪塔群から、お堂を望みます。

 

後ろに回ると、群馬県桐生市菱町米沢の宇都宮神社が見えます

あの赤い屋根の社は、さっき参拝しました。

 

橋のようなものが見えます。

間に川があって、群馬県と栃木県の県境になっているようです。

県境を越えて、往来が可能のようです

 

お堂の左側面です。

白壁が修復途中のようです。

 

 

参道左側のお宅に声をかけて、Uターンします。

サルスベリ満開の米沢薬師堂、いい雰囲気でした

実は、今ではもう存在しない実家に、大きなサルスベリの木が2本ありました。

ここにある2色だったと思います。

サルスベリはこだわりの木です

再訪だと、前回見えなかったところが見えてくるものです

 

 

 

 

 

 

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米沢の宇都宮神社

2019-09-16 16:12:11 | 群馬県・旧桐生市

ひめちゃんちの近所で、早くも稲刈りが始まりました。

後ろ姿は、ますます茶髪(ちゃぱつ)になる七海ママです。

でも、体調はいいようです

ジャンプが復活しています。

 

案山子が移動しています。

稲刈りといっても、実だけ収穫してあとは刻んでしまうようです。

 

 

 

米沢薬師を目指す途中で、おや、宇都宮神社だ

駐車場が見当たらず、ちょっと路上で失礼します。

 

 

 

額には宇都宮大明神とあります。

社殿と社務所が一緒のようです。

サルスベリの季節です。

 

社殿の東には、川が流れます。

 

おや、向こうに見えるお堂は、見たことがあります。

米沢薬師です

やはりサルスベリが見えます。

 

菱カルタがあります。

1丁目の米沢にある宇都宮神社は、細川丹後守が宇都宮二荒山神社から分祀して米沢地区で一休みしたという場所に、元文元年(1736)に創立したものといわれる。

 

細川氏ですか

「細川丹後守が宇都宮二荒山神社から分祀して米沢地区で一休みした」、そこには分祀してきた神様は、置いて行かなかったのですね。

どこか、他の場所で鎮座したのですね。

後にその場所に、元文元年(1736)に、米沢の宇都宮神社は創立されたのですね。

では、細川丹後守は、どこに宇都宮二荒山神社から分祀した神様を持って行ったのでしょう。

 

実は、菱にはもう一社、宇都宮神社があります。

 

応永19年(1412)菱領主細川丹後守の勧請で、宇都宮二荒山神社から分神して祀ったと伝えられる。

こちらに持ってくる途中、一休みしたのが米沢の宇都宮神社の所だったのです

 

ヒイラギはわかりませんでした。

そんな大木あったかな?

大きな切り株がありました、もしかしたら?

 

 

菱領主細川氏については、史料がほとんどありません。

『桐生老談記』によれば、

細川内膳家は摂津国細川分流で、京都にいた細川丹後という者が初代である。

細川丹後は、野州小俣の渋川氏に跡継ぎとして迎えられる約束で応永19年(1412)に小俣に下った。

ところが、家中は外腹の隠し子を取り立て、細川丹後に従わなかった。

細川は関東公方足利持氏に訴え、少しの領地をもらい、その秋から下菱に住んだ。

其の子修理祐、其の子丹後、其の子主膳、其の子内膳と5代にわたり繁栄した。

内膳の時、都の八条殿から小雀という名馬を拝領した。

その名馬小雀を桐生氏から何度も所望されたけれど、渡さなかった。

桐生氏は天文十三年(1544)三月二日、津布子常陸之介を大将として襲い名馬を奪い去った。

内膳夫妻は自害した。

内膳の妻は膳城主因幡守の妹であった。

 

 

老談記は歴史的事実をそれなりに表現したものでしょうけど、あくまでも物語です。

菱領主細川氏が登場するのは『桐生老談記』だけのようです
その細川内膳の妻は、山上城のおとなり膳城主・膳因幡守の妹だったといいます

 

さあ、米沢薬師に行きましょう

 

 

 

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伝えきくくらみ沢の古戦場

2019-09-15 21:51:01 | 群馬県・旧桐生市

ひめちゃんは、七海ママのちい散歩によく付き合います。

む、ママが茶髪になってる

ひめちゃんと色がちがいます。

年のせいで、まあ人間が白髪頭になるようなものでしょうか?

15歳になって、白髪は全くないわけではありませんけど、あまりないようです

 

 

 

山上城の隣、膳城の最後の城主・膳備中守宗次は、上杉勢と小俣城攻撃中に暗闇沢で討ち死したと云います。

この付近には、数年前に行ったことがあります。

現地のおばさんに、「暗闇沢はくらみざわと読むんだよ。」と教わりました。

また、気になって出掛けてみました。

記憶を頼りに、路地を入ります。

 

菱カルタ「伝えきくくらみざわの古戦場」が、ありました

 

残念ながら、おばさんには再会できませんでした

説明板では、膳備中守宗次の討ち死は書いてありませんね。

『新田老談記』からの小俣城攻撃のあらすじ(現代語訳)です。

元亀3年(1572)4月20日、上杉勢は、膳備中守の案内でくらやみ沢から攻め上った。ちょうど小俣城主渋川相模守が小田原に出かけている留守を狙った。小俣勢いはやっと防戦していたが、その日の申の下刻(午後4時ごろ)突然強風が吹き、大雨が降り始めて、登る敵の正面から吹き付けはじめ、二時ばかりの間、さながら闇のようになって敵も味方も見えなくしまった。その風雨の中で、先頭に立って攻め登って来た膳備中守の一族家人五六十人は、城から落としかけた大岩や丸太の下敷きになって残らず死んでしまった。

 

この菱カルタの所を、奥に進みます。

ここは群馬県桐生市菱町1丁目です。

そして、さっきのカルタの隣に、古い米沢(よねざわ)地区案内板があります。

米沢なのですね

向こうの山に小俣城があったのでしょう。

 

さらに進みます。

沢と云えば沢のような?

 

さらに進みます。

む、ゴルフ場の車

この向こうは、城山カントリークラブというゴルフ場になっています。

向こうは足利市です。

やむなく、ここで退却です。

 

小俣城攻撃の時に亡くなった人々の墓(供養塔)がある、米沢薬師にも寄って行きましょう

あれ、ここは米沢です。

米沢薬師は栃木県足利です。

もしかしたら越県合併したときに、米沢は二つに分かれたのでしょうか?

 

 

 

 

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桐生川紀行総集編・心のいぼ取り地蔵(桐生山鳳仙寺)

2019-09-14 15:29:20 | 桐生川紀行

ひめちゃんは、獅子丸と、堀之内を北に出てお散歩してきました。

今朝の赤城山は、きれいでした

季節が変わり始めています。

獅子丸も変わり始めているようです。

 

 

ひめちゃんと同じ所を情報収集しています。

以前は、同じ所に首を突っ込むと、威嚇したり噛みつきそうになったりしました

ひめちゃんの家族はそんなことはなく、みんなで一緒に情報収集します。

実家の生活に慣れてきたのでしょう

まあ、もう少し一応用心してお散歩しましょう。

 

 

 

(2018年)11月4日に、桐生山鳳仙寺に行きました。

道がいやに混んでました

途中にある群馬大学で、クラシックカーフエステバルがあったとか。

県道66号線を北上し案内板に従って左折し、深山の雰囲気の杉木立の中を進みます

奥の大駐車場に駐車です。

 

今回はぜひ「いぼ取り地蔵」さんにお参りしたいので、山門の下まで戻ります。

途中、三尺坊大権現の碑がありました。

 

 

鳳仙寺では秋葉様(あきばさま)の祭があると聞いたことがありました。

三尺坊大権現とは、秋葉様のことで火防の神様ですね。

鳳仙寺のHPによると、

秋葉三尺坊大権現が、菩提寺に祭祀されましたのは、明治14年(1881)のことでした。徳川幕府が江戸に開かれた時代から三尺坊大権現が鳳仙寺に祭祀されるまでの期間、桐生は度々の大火に見舞われ、領民は塗炭の苦しみを味わい続けました。桐生市史をひもといてみましても、実に60回近くの火災があります。

このように桐生には火災が多かったものですから、鳳仙寺で「桐生の人々の大盗消除・家内安全ほかの請願成就」を願って、前記の年に静岡県の秋葉総本殿(秋葉山秋葉寺)から奉安されたのです。

 そうだったのですか

そして、毎年10月16日に秋葉三尺坊大祭が行われているとあります。

 

 

さて、もう少し下って、山門前に回り込みます。

 

 

 鳳仙寺というと、この山門のイメージです

 

 

山門前の向かって左側に「いぼ取り地蔵」です。

 

 


体にできた疣(いぼ)だけでなく、心の疣(いぼ)も取り除いてくれる、ありがたいお地蔵様です。

心を込めて祈ります

ちょうど、お遍路さんといういでたちのおじさんが、山門を出てきました。

全国のお寺を巡っているそうです。

御真言を7回唱えながら祈りなさいと教わりました

残念ながら御真言は、すぐに忘れました

 

 

山門前の右側は「一願一言地蔵」でした。

 

 

とりあえず心を込めて手を合わせておきました。

 

 

山門の仁王様は直接対面できました。

 

 

 

金網等に覆われているところが多いのですけれど、やはりこうでなくては

山門の龍も見事です

 

 

 

山門をくぐって、説明板を見ます。

 

 

 説明板の左側は、境内の図面です。


由良成繁は「天正2年(1574)に桐生にやってきて、鳳仙寺を開基したり町屋を整備したり民政に意を用いた」とあります。

為政者としては、よい評価のようです。

 

本堂にお参りです。

 

 

落ち着いた本堂です

 

 

庫裏で御朱印をお願いします。

 

 

 やはり山門が鳳仙寺のイメージなのですね。

 

 

本堂の裏手の由良成繁の墓をめざします。

イノシシよけの電線が張り巡らされています。

かなり上りました。

 

 


こんにちは

 

この前はいつだったでしょうか、とにかくお久しぶりです。

新田の大中黒の紋が目立ちます。

実家の遠いご先祖さまも由良氏配下であったという事ですが、北条氏による金山城攻撃の中で敗れ帰農、ご一緒していません。

 

 

桐生の町建てをした大野八右衛門の墓もあると聞きましたが、来る途中には見つかりませんでした。

少しうろうろして帰ろうとしたら、ありました

 

 

 なんだ、由良さんのお墓の下じゃないですか。

この前を通って由良さんのお墓に行ったのです。

「大野八右衛門の墓」、消えかかって倒れていて、さっきは気がつかなかったのです。

 

大野八右衛門によって、桐生新町は北は天満宮、南は浄運寺まで町割りされたといわれています。

 

裏山の墓地からの眺望です

 

 

心の疣(いぼ)は取れたかな

 

 

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