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黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

七海ママのふるさと2・中町雷電神社

2020-12-15 19:10:31 | 群馬県・中毛

寒い寒い朝でした。

獅子丸のお部屋のお水は、薄氷が張ってます

獅子くん、夕べはお水飲まなかったんだね。

他のみんなのは、凍ってません。

でも、そろそろ湯たんぽの用意かな

 

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を北に出ます。

真っ白な霜の世界です。

ひめちゃんたちは、岩神沼に到着です。

赤城山も寒そうです。

黒いカモさんの影が2つ見えます。

 

今朝は更に北上して、蕨沢川の源流・新沼&童沢貯水池まで足を延ばしました

まず東の新沼(しんぬま)です。

静かです。

右端の杉林の所が「関の摩崖仏」です

 

隣の童沢貯水池(どうざわちょすいち)ものぞきます。

沼の奥に鳥の姿があります

白い大きな鳥もいます

ほんとうに久しぶりに、シラサギに逢いました

 

帰り道の、乳牛の子牛用牛舎です。

防寒用のトタンで覆われています。

春になるまで会えないね

 

 

 

那波城趾から県道142号線(日光例幣使街道)に戻り、柴町を目指します。

途中、あれえ、ピンクの鳥居だ

社額は「雷電宮」、中町の雷電神社です。

よくよく見ると、さめてピンクになったようです。

でも、ピンクの鳥居目立ちます。

ちょっと寄り道です。

 

寒桜がきれいに咲いています

 

ごろごろ石山の上に石宮です。

何様かな?

 

拝殿で参拝です

近づくと、なにやら警報のような音がします

どこにセンサーがあるんだろう?

壁には龍もいていい感じですけど、「まるで不審者じゃ」と言われているようで、落ち着きません

拝殿の前面の壁に龍がいるのは、初めてです。

拝殿の奥に、同じ建物の中に、本殿があるようです。

 

廻りには石造物です

 

何様かな?

古そうですけど、霊験有りそうです。

 

まだ紅葉が残ってます

たくさんの庚申塔です。

 

馬の浮き彫りがある馬頭観音です。

「馬士連中」とあります。

馬を使って商売をしていた人々がいたのかな?

例幣使街道沿いだもの

 

神社前の道を突き当たりまで行って、左折すると、日光例幣使街道・柴宿です。

赤城山が見えます。

例幣使一行の進行方向は、左から右へ(奥から手前へ)です。

赤城山は左に見えています

右赤城(みぎあかぎ)ではありません

 

 

 

 

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七海ママのふるさと・名和

2020-12-13 20:18:47 | 群馬県・中毛

今朝は、小次郎パパとタバサねーちゃんが、先にお散歩に出ました。

タバサねーちゃんが立ち止まります。

 

ひめちゃんと獅子丸が、おとうさんを連れてやって来たのです。

お先に、追い越していきます。

 

少し行くと、ひめちゃんがご褒美の催促です。

獅子くん、待ってます。

微妙な二人の順位関係がありそうです。

 

かれらは堀之内を西に行きました。

今朝は小次郎パパとタバサねーちゃんが、岩神沼に到着です。

だれもいなそうだね。

あれ、いました

いつもの黒いカモさんです

彼(?)は、この沼に住んでますね

 

 

ひめちゃんたちのママ、七海ママは2004年の夏に生まれました。

出生地は、伊勢崎市柴町です。

生家の犬舎号は、○○名和荘です。

名和(なわ)は地名です。

柴町(しばまち)は、明治時代には那波郡名和町(なわぐんなわまち)でした。

 

ママが来た頃は、まだちゃんとしたカメラがなくて、たぶん使い捨てカメラだったと思いますけど、ピチピチギャルの七海ママが残ってます

けっこう丸々としてました

「まーさか肥えた子だね。」なんて言われたこともあります。

 

何度か出産しましたけど、ひめちゃんたちが最後の子供達です。

ママ、おっぱいちょうだい

一番先頭はひめちゃんです。

 

しつけの甘噛みを受けているのも、ひめちゃんです。

 

この叱られている子も、ひめちゃんかな?

 

みんなが養子に行っちゃって、ちょっと寂しいひめちゃんは、ママに寄り添っています。

16歳半になったママは、脳梗塞のような状態からなんとか回復して、静かに暮らしています

 

 

ママの故郷・柴町の例幣使街道・柴宿から日光裏街道が始まり、大胡を通って、ひめちゃんちの少し北・新里の板橋を通って神梅に至り、足尾に行って日光に至るということです。

ママのふるさと柴宿・柴町、名和(那波)、少し歩いて見ましょう

 

まずは、那波城趾(なわじょうし)です。

例幣使街道(県道142号線)の信号・堀口町の少し先を、名和幼稚園目指して北に入ります。

ありました、「那波城趾本丸跡」

遺構は残っていないという事ですけど、本当に何もありません。

後ろに文字があるような気もするのですけど、わかりません。

赤城山もよく見えません。

でも、『日本城郭体系』第4巻に、那波城は取り上げられています

縄張り図はないですけど。

那波城の位置は伊勢崎陣屋の南三・七km、昌雲寺の北側にあたるが、耕地整理のため完全に消滅してしまった。川などの委託地形のまったくない館城であったと推定する。ここの城主は大江広元の子政広を祖とする那波氏で、当時の館は東南四kmの小泉にあり、利根川の変流によって流失してしまった。~(中略)~天正十五年秋、原因は明らかでないが那波城は北条方に占領され、顕宗は城を落ちて上杉景勝を頼り、のち、天正十八年に奥州九戸で討死したという。

 

七海ママのふるさと・名和、少し歩いてみましょう

 

 

 

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橘山の御霊石・小石神社

2020-12-03 16:17:00 | 群馬県・中毛

ひめちゃんちの師走のバラです。

悪条件の中、よく咲いてくれました

イングリッシュローズ、ザピルグリムです。

つるバラ、パレードです。

向こうには、まだまだ咲きそうなムタビリスです。

つるバラ新雪です。

アーチが壊れてしまったままです。

来春にはなんとか対策をしましょう。

師走の名残のバラ、また来春も逢いましょう

 

ひめちゃんは、小次郎パパを待ちます。

パパと堀之内の北を廻ってきました。

久しぶりに、堀之内の内曲輪を通ります。

内曲輪の真ん中を走るのは市道です。

今は豚舎に挟まれた空間で、通るのがはばかられる感じです。

イノシシ対策でフンスが設置され、葛塚城の石の残骸は見えにくくなってます。

 

 

 

細井尼の面影を尋ねて、県道76号線を西に走りました。

その行き着く先には、バラ園があります。

バラ園の近くに、小石神社があります。

小石神社には、橘山の霊石が祀られていると言います

では、76号線をもっと先まで行って、小石神社に参拝しましょう

駐車場はなさそうなので、とりあえずバラ園を目指します。

ナビの指示通りお難なく到着です。

バラ園から、歩きます。

事前学習が不十分で、ちょっとわかりにくく遠回りして、やっと到着です

 

住宅地の中に、違和感なく鳥居があります。

正面の鳥居ではなく、脇の鳥居に出ました。

 

鳥居をくぐると、拝殿です。

 

わあ、御利益ありそうな石です

縁結びの石と言うことです。

 

手水社は、シンプルです。

 

現代的な狛犬です。

もう初詣の幟です。

 

左の狛犬の奥に、「八雲立つ・・・・・・」の歌碑が有ります。

 

拝殿で2礼2拍1礼、「よきご縁に恵まれますように」心を込めて参拝です。

御霊石はこの中かな?

 

社務所で、御朱印と由緒書きをいただきました

小石神社の由緒  主祭神 素戔嗚尊

古き昔より上野国勢多郡の橘山に疫病除のご神徳がある天王石と呼ばれた御霊石があった。この御霊石は悪疫が流行したに喪チョコまれ、様々な病から人々を救ったといわれているが、村々を転々とした後、江戸時代の後期に前橋市横山町の路傍で風雨に曝されていたのを、地元の篤信家たちによって八坂神社に祀られる事となった。町の人たちは『おてんのさま』として親しまれ、その後明治四十年にしないの琴平宮と白山神社を合祀した際に小石神社と改称された。~中略~昭和四十六年に敷島公園内の此の地に遷座され、その後は敷島町・緑が丘町の歴史と共に歩んできており、今では両町内の氏神様・鎮守様として親しまれている。なお旧鎮座地であるスズランデパート屋上には、現在でも分社が祀られている。

 

歌碑の「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」は、素戔嗚尊の歌でした。

主祭神は素戔嗚尊なのです。

 

社務所のそばが正面の鳥居でした。

 

さて、鳥居を出ると、バラ園の駐車場が見えます。

なあんだ、まっすぐ歩いてくればよかったんだ

 

バラ園に戻ります。

さすがに、もう剪定が終わってます。

久しぶりのバラ園ですけど、薔薇なしです。

かろうじて、フンスに、小輪のつるバラが咲いています。

また、薔薇の季節に来ましょう

わりとすんなり来る道を見付けたので

 

 

 

 

 

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蜜柑の実る勝山神社

2020-11-12 20:42:10 | 群馬県・中毛

ひめちゃんは、小次郎パパと諏訪神社の向こうへ行こうとしました。

あれえ、怖い

向こうから、黄色い帽子の集団がやって来たのです。

寒くなってお散歩時間が少し遅くなったので、遭遇確率が上がったようです

 

急遽、天神田(字天神の田んぼ)の方に避難です。

 

パパの後ろには、ワラロールです。

牛さんたちの冬のご飯です

今では、サイロを必要としません。

ワラロールが出現した最初の日は、ひめちゃんは「不審物じゃあ」と吠えました。

まもなく反応しなくなりました。

 

もう大丈夫かな?

ちょっと心配

ひめちゃんは、本当に子供が苦手です

 

今日だけのワラロールの世界です。

少し南に下ると、こちらは、これからワラロールになるようです。

飼料用米の表示があります。

何か交付金が出るようです。

榛名山が見えます

 

もう大丈夫、ひめちゃんも落ち着きました

 

天神田から、都合でケンくんちにのそばを通りました。

ケンくん、ひめちゃんに気づいて、出てきてくれました

ごめんね

パパが一緒です。

パパは年甲斐もなく、ケンくんに猛烈にライバル意識を持ってます。

ひめちゃんも、まだ恋の季節ではないのでしょう。

見つめ合って、別れました

 

 

 

11月5日、例幣使街道の右赤城の謎が解けて、忠治茶屋で焼きまんじゅうを買って帰ります。

忠治茶屋の少し東に、広瀬川を渡って北に行く道があります。

境町の武士橋ではなく、豊東橋で広瀬川を渡ります。

橋のたもとから赤城山がよく見えます

 

橋を渡りきって間もなく、神社が出現します。

駐車場の脇には、何本もの蜜柑(みかん)の木があります

こんなに蜜柑の木がある神社は初めてです

 

正面の鳥居の方から参拝です

村社勝山神社とあります。

ここは伊勢崎市境保泉(ほずみ)町です。

二の鳥居の額は、勝山大明神です。

銅の鳥居かな?

 

とにかく、拝殿で参拝です。

うわあ、龍がいます

生き生きとした、今にも躍り出てきそうな龍です

 

ちょっと中の方も失礼します。

わあ、天井絵です

後で検索すると、島村の金井烏洲(かないうじゅう)の作品だということです。

隙間からカメラにやっと映ってくれた絵なので、全体はわかりませんけど、鳥の絵が多いような気がします

金井烏洲は、前小屋天神で行われた書画会で、渡辺崋山と会いましたね。

 

拝殿の右にも、龍がいます

中を失礼します。

何様かわかりません。

 

社殿の後ろです。

 

天手長男神社って?

うーん、何様かな?

 

拝殿の左側にも、龍です

本殿は、まったくうかがえません

 

龍の隣に、不思議なものがあります。

江戸時代後期の名工・弥勒寺音次郎が嘉永五年に収めたと伝えられている。

 

木で組み立てられた灯籠なのですね

 

みやま文庫『佐波伊勢崎史帖』に、

常陸笠間笠間稲荷神社は、彫刻の妙をもって国指定重要文化財になっている。それはあまりに本殿に施された彫刻が美しいからであるが、その彫刻をしたのが弥勒寺音八である。名を幸孝といい、音八と称し、南松軒梅雪と号した。父音二郎は宮大工としていくつものりっぱな仕事をやって有名であり、また彫刻の名手でもあった。

父の音次郞さんも、彫刻の名手だったんですね。

龍はみんな、音次郞作かな?

 

現在の灯籠は、石です。

 

鳥居の傍らに、古い灯籠が並んでいます。

木組みの灯籠が乗りそうなのもあります。

古い灯籠の向こうに、蜜柑がたくさんなってます

何本もの木に、たわわに実ってました

もしかしたら正月の初詣で参拝者に振る舞うのかもしれませんね

 

 

 

 

 

 

 

 

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俳諧冥利の生涯・栗庵似鳩の墓

2020-11-11 21:36:54 | 群馬県・中毛

ひめちゃんと獅子丸は、北の方にお散歩です。

今朝の赤城山は吹雪いているかな?

獅子丸がどうしても岩神沼の方に行くと進路を譲りません。

実はミーナちゃんが派恋の季節まっただ中で、ミーナちゃんの足跡を辿りたいのです。

 

沼の方に向かいます。

あれえ、小学生の黄色い帽子の集団だ

急いで沼の方に待避です。

行っちゃって良かったけど、まだ油断大敵だよね。

ひめちゃんは、まだ用心しています。

かかっていた雲が風に流されて、赤城山はその姿を現しました。

今朝はカモさんの姿はありません。

ひめちゃんは、何か見付けたようです。

獅子丸は、ちょっと不満のようです。

ミーナちゃんは、今朝はここを通らなかったようです。

 

 

 

11月5日やっとたどり着いた右赤城のそばの道標から、道なりにある、俳諧師・栗庵似鳩(りつあんじきゅう)の墓を訪ねます

駐車スペースがないので、路上駐車です。

道の端の小さな墓地の一角にあります。

墓と説明板があります。

今でも生花が上がっているのですね

「雪仏 生まれた時の 顔に似よ」の文字は確認できませんでした

隣に栗庵似鳩翁碑があります。

栗庵の上州俳壇に登場の感動的な話は、書いてなさそうです。

 

彼の上州俳壇への、登場の話は、実に感動的なものでした

みやま文庫『佐波伊勢崎史帖』(しの木弘明、平成3年)によると、

栗庵似鳩は上州に正風を唱えた最後の俳諧宗匠であった。それほどに栗庵の力量はすぐれており、大きな指導力を持っていたのである。

明和九年十二月二十三日は雪空であった。大阪を食い詰めて江戸に来たが、江戸も食い詰めて行き場のなくなった似鳩は、とぼとぼと中仙道をたどった。戸田の渡しを越す比には小雪がちらついてきた。熊谷で道を折れると境町向かったが、もう一面の雪景色で、中瀬の渡しに利根川を越すときには足は雪に埋まり、夜の雪道である。境町から例幣使街道に出たが、それは長沼村の観音寺の俳人松谷を訪ねようとしたからである。ところが長沼の手前、上蓮沼にきたときあまりの寒さと空腹のために、雪の中に倒れてしまった。

もう雪の真夜中に人通りはなかった。倒れた乞食坊主の背中には雪が降り積もったのである。夜中にこれを見付けたのはこの村の高柳勘太夫で、乞食坊主を助け出すと、自分の家に連れて帰ったのである。

(中略)

似鳩は大阪の人、玉置氏、酒を愛して瓢堂と号した。小林一茶は同じ乞食坊主で、生涯を流浪のうちにあり、死ぬ年の正月には、丸焼けになって、放り出され、悲嘆の内に一生を終わったが、乞食坊主似鳩は高柳勘太夫という理解者があったために、俳諧冥利の生涯をおくったのである。

 

このくだりが、ズーッと記憶にありました

 

また、彼の最後も印象深いものでした

 

寛政九年十二月二十三日は雪の降る寒い日であった。この日隣村の弟子多賀谷思水の文木館に連句の興行があった。諸俳とともにあった似鳩は、好きな酒杯をかたわらに、終日呑んでは付け句していた。終わって夜中の雪道を帰ったが、途中足をすべらせて雪の中に倒れてしまった。その背中に雪が降り積もった。やがて村人に助け出されたが、その雪の上には似鳩の面があったのである。

 雪佛生まれしときの顔に似よ

この一句を辞世に栗庵三十年の幕を閉じたが、それは俳諧冥利に満ちた生涯であった。

 

雪の日に登場した栗庵似鳩は、また同じ雪の日に退場して行ったのです

忘れられない逸話でした

 

道の反対側からの地点からの栗庵似鳩の墓です。

不思議な事に、グーグルの地図でも車のナビでも、この反対側の地点を指します

 

 

 

 

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