ベツレヘムの家畜小屋発

グレグレ耶蘇・桜泉のブログです。

対話の挫折

2008年11月23日 | グレ耶蘇生活
今日は最終終日。来週からアドヴェント。
でもJくんの風邪でまた教会に行かれませんでした。

このところ、ある事を思ってうつうつとしています。
三つ四つ五つぐらいあるのですが、教会がらみのことが二つあります。

ひとつは、自分が立ち上げたメーリングリストを、解散しようかということ。
人が集まらず、まったく意図したようにいかなかったのです。
大体、MLというもの自体が、もう流行らないという気もしますし。
それにしても、メーリングリストやっていて一番痛かったのは。
メンバーの中に、いわゆる宗教保守、保守的キリスト教の立場な人がいました。桜泉とはまあ対極に立つような人です。うわー…なんじゃこの方は、と思いつつも、一方でとてもチャンスだと思いました。こういう人の考えを聞きたい、こういう人と対話をしたい、そうすれば理解しあう道がつくんじゃないかと。
でも、こちらも時間がなかったり、本当に丁寧なメール投稿にはなり得なかったのでしょう。こちらの考えを述べ、相手の考えを聞き出すつもりが、どうやら私の強引な意見の押し付けになってしまっていたようです。その人はふっつりリストを止めてしまいました。
すごくショックで、はじめは彼女への怒りで1週間もんもんとしました。いっそ罵るなり私を批判するメールをくれていたらましだったのに…。でもそれから、今度は自分のしたことへの自己嫌悪というか、失敗、挫折感…そんなものに見舞われました。
私は間違ったことは言ったつもりはない、でも、対話をするからには本当に繊細な配慮、よくよく考えた言葉が必要なのだ、メーリングリストというのものの限界もあるのだ、そんなことも思い、後悔しきりです。
ま、でも、一言あって止めてほしかった、ご自身の考えをぜひ述べてほしかったのですが。私にはそう言う資格はない…今はそんな気持ちです。
対話とは本当に、簡単なことではないということも痛感しました。

二つ目は、ある人(教会関係者)に失礼なことを言ってしまったこと。
いや、一方では一日に何度か、その人への怒りが湧いてくるのです。いくらそれは、8割まで自分が悪い、自分の受け止め方が悪いのだとわかっていても、気づけば、とんでもない勝手な罵りを頭の中で巡らせているのです。
私を期待させないで、期待させておいて裏切るな、どうせその場限りの、その場しのぎのことを言ったのだろう、心の中で胸ぐらつかんで罵倒しています。本当は、私こそ、言葉も思いも尽くさず、人をいいように利用していると、そう思われても、だから適当にあしらおうと思われても仕方ない、そうも思い、これまた自己嫌悪ですが。
今日、たとえ喧嘩になってもいい、自分のそういう気持ちも話し、しかし失礼なことを言ったことは謝りたい、誤解があるならきちんと話してほぐさねば、そう思っていたけれど、上記のようなわけで教会に行くことができませんでした。
これからまた1週間を悶々と過ごし、人に対して怒りを燃やしたりそのことで落ち込んだりするのだろうかと、ちょっと恐ろしく思います。

どちらもどちらも、対話の挫折です。
じっと、自己嫌悪なり怒りなり苦しみを、ただ持ちこたえるしかないということを感じます。冬が間近い夜空を見ると、そのことがシンと身にしみて苦しいです。

桜泉は、いわゆる意味でのカミサマは、ホントにいるとは思っていないダメダメクリスチャンです。(いわゆる意味でのカミサマとは…→よく絵に描かれているような、白いひげのおじいさんみたいな、人みたいな姿をし、人みたいな意志で人の運命やこの世を操作しているような、そういうの。)
でも、こういう暗い夜空に向かって、自分の中の夜空に向かって、そしてその寒さに耐えねばならないとき、神様…と語るしかない、神様がそばにいてほしい、と願うしかない、神様がいつか何かを開いてくれる時をじっと待つしかない、そう思うのです。そういう意味で、やはり私はクリスチャンなのだと、自負するのでした。

今日(教会暦の最終終日)にふさわしい、桜泉の好きな讃美歌があります。
「マラナ・タ 主イエスよ おいでください・・・」
讃美歌21のトリ、「新しい天と地を見たとき」の4節の冒頭です。
(マラナ・タ=主よ来てください)

苦しみの時、つらいとき、いつも、マラナ・タという祈りがあることに、少しだけ、救いと喜びを感じます。いや、こんなに大切な「少し」はないと思うのです。少しだから、貴重なんですよ。きっと…。

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