ベツレヘムの家畜小屋発

グレグレ耶蘇・桜泉のブログです。

いぢめたくていぢめているわけでも…

2012年02月20日 | グレ耶蘇生活
言葉の端々についもしくははっきり出てしまう、アンチ保守(勿論含原理主義)キリスト教、アンチ牧師な桜泉のイケナいトーンは、…何も故なくいぢめをしているわけではありません。(第一、桜泉対多数ですから、いぢめに当たらない気も…。)

元々、上から目線、依らしむべし知らしむべからずが、でーーーっ嫌ぇな性格で、そういう臭いに敏感です。
獣の奏者(上橋菜緒子の小説)に膝を打ちまくるような人です。
思考停止は死と同じ、知の自由、学問の自由万歳な人です。

でも、とにかく決定的になったのは、説教者が、遠因的には教団に潰され、信徒を頼りにしてくれず、信徒も頼ってもらうに足りなかった、その事以外の何でもありません。
それを通じて、万人祭司と言いながら、牧師に仕事も権限も集中する現実、牧師グループと信徒グループの段差のある断絶、謙遜の名のもとに依存を温存する体質…そんなことが見えてきてしまいました。

とはいえ、私も1年前ぐらいまでは、牧師にぶら下がりすぎるほどぶら下がる、パラサイト信徒でした。ここに懺悔します。
しかしこの2年の歳月が、その間の自分のあまたの危機が、とりあえずの自立を促したのです。その副反応(副作用のこと)出過ぎで、牧師や優等生信徒連中の言うことはミニマム3割引からマックス11割引…11割引とは偏見・曲解とも言い、恥ずべきことですが…になっています。

でもとにかく、今の私には、キリスト教会が、牧師が、自己保身、自己のレーゾンデートル(存在理由)を守ることのために宣教を、説教をしているのではという疑いが消えないのです。そして、そういう、自己の中の疑いを、封じ込めたくないと思います。

確かに職場や職種を否定されたら辛いです。某図書館の独法化案が某野党(現)から出たときは、ムカムカしました。トップ@博士が図書館におけるカタロガー(書誌目録作成者)の専門性や存在意義を否定したとも受け取れる発言をしたときは、一瞬だけ「うじね(←未変換)」と脳内テロップが流れました。
でもムカムカしても罵詈雑言を思っても吐いても仕方ありません。一度、立ち止まって、己や己の帰属する組織のレーゾンデートルを問い直して、よりよい仕事をし、意義のあるなしを確かめなくてはならないと、それらのとき、肝に銘じました(がなにもできずに退散しまーす←ボケ)。

キリストを信じない世の中が悪いとか、俺様は牧師であんたは信徒とか、ふんぞり返らずに、存在理由を改めて自らに問う共同体でありその役職であってほしいという、まあある意味桜泉の駄願望、駄祈りですが。

桜泉も、今の気持ちや考えは、とりあえずの踊り場だと思っています。もう何百段か螺旋階段を上ったら、見える景色も変わり、彼・彼女らの言説や態度も、「そういう立場の人もいる」と適度な距離で見られるでしょう。一連の「割引」をしなくなれたら、本当の自立かなぁと思います。

天の父なる神様いただきます、アーメン!というミニマム祈り@食前と、主の祈りを、念仏か題目のように唱え、すがってしまう小ささをただ持った私に、どんな眺望が待ってるとも、今は思えませんが…。

※余談。題目と言えば、日蓮宗の幼稚園で毎朝題目を唱えた体験や、日蓮聖人の辻説法や法難を繰り返し聴いたことは、後の耶蘇桜泉を作ったと思います。常栄寺と書いてあるのを「ぼたもち寺」と脳内自動変換し、しかも「ベロニカに似てる」と連想する仕様になっています。(笑)

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