ベツレヘムの家畜小屋発

グレグレ耶蘇・桜泉のブログです。

親バカ・親エゴはほどほどにしぃや(怒)

2010年05月10日 | グレ耶蘇生活
耳鼻科行ってきました。いわゆる副鼻腔炎です。検査をしたので来週また来てくださいって……耳鼻科は1時間待ち当たり前なんで…いやだなあと思いました…。
今朝だって、結局銀行めぐりをして、カフェ入って時間つぶしたんだぞ…。仕事は遅刻になるし、時間もったいないし……、でも、カフェに入れたんだし、銀行の用を済ませられたのだから、よし、と考えるか。

ところで、ただ今、ある話にまこと呆れて立腹中。

ある人が子どもに幼児洗礼を受けさせたそうです。
その後、牧師が不祥事を起こして辞めました。(細かいことは、正確ではないのですが、その人にとっては、不祥事を起こして辞めたという理解なので、そうしておきます。)
その人は、「かわいい子供に、こんな牧師から洗礼を受けさせてしまって失敗した」と、悔んでいるそうです。

バカめ、と桜泉は鼻で(鼻水垂れまくる鼻で)笑いました。
洗礼のなんたるかがわかってない、こういう人がいるから困る、と。
そーゆーことを言うやつは、せーぜー、この洗礼をなかったことに「偽って」、他の教会で洗礼を受けさせるか、今の教会の洗礼が無効になるような…考えられるのはバプテスト派など、浸礼の形式をとることを是とする教派や、幼児洗礼を認めない教派に移籍し給へ。へっ。

あるカトリック信徒の方(司祭かも)が書いたものだったかしら…とにかく聞いたことだか読んだことがあります。
教皇のミサに与っても、新米司祭のミサに与っても、同じミサ。
教皇から洗礼を受けても、新米司祭から洗礼を受けても、同じ洗礼。
たとえ生臭坊主が執り行ってもミサはミサ、洗礼は洗礼。
司祭だ牧師だというものは、その業を行う「者」が重要なのではない、その「業」を行うことにおいてその立場にあるのだと。
また、洗礼も聖餐も神と人の関係であり、間を取り次ぐのは、水道の蛇口と受けるバケツ・コップなどの間のホースでしかないと言った人もいる。
はたまた、調理室と教室を結ぶヴァーチカルコンベアかしら。(保育園にあるんですよ。地下の調理室から、上の階の教室に食べ物を送るための、荷物用エレベーターが。うちの職場にも、本を運ぶためにありますよ。病院なんかにも、薬運搬のためによくありますね。)

ある意味、生臭坊主のミサっていうの、なんかすごく魅力的かも。
その生臭坊主(司祭・牧師)は、人としてはもうどうにもならぬほど、悪い意味で人間的、でも、それでも、それにもかかわらず、なお神様が用いられる、それに応えようとしてしまう面をその人は持っているということだから。
人間なんて、鬼平流に言えば、「善いことをしながら悪いことをし、悪いことをしながら善いことをする」――そういう存在でしかありえないと最近思うのです。
そして、洗礼と聖餐が真に神様のものからならば、それは、どんなホースどんなコンベアから運ばれてこようが関係ないはず。その時ホースはちゃんと機能していた、コンベアは動いていたのだから。

だいたい、自分の子供には清いもの良いものだけを与えたいという親のエゴが鼻につきますな。ふん。
(この人は、他にもその手の発言をしているのです。よく言えば子煩悩、悪く言えばホント、エゴっ親。)
多少その感覚、気持ちはわかりますが。人の親として。
しかし、それでは子供は育たんのだということも、もう、経験から、何だかわかってきています。
清いもの良いものだけで育ったって、どうせこの世以外のところで生きていけないのです。清い無菌室は存在しないのです。
そして、自分の子だけが清く育っても、この世は良くなりはしないのです。世の中全体を皆で変えねば良くなりはしないし、だれも幸せになんかなれない。
Jくんゆーくんは、食べ物一つとっても、母のへたくそ料理、保育園の給食、コンビニのおにぎり、レストランのランチ、婆の丁寧な、しかし味の濃い料理、よそのおばちゃんに買ってもらう甘いパン……いろんなモノに囲まれ、それらを取り入れて接して育っていきます。
(うちの子なんて、それでもまだまだ、ファーストフードに割と慣れさせてないクチです。飲み物なんかも内容に注意して与えていますし。)

人間は、本当に、この世でしか、こんなこの世でしか、お互い欠点だらけの人間としか、生きられないのですよ。この地に立ち、どんな人々でも、隣人と生きるしかないんですよ。わかってますかいね、その人は。心配だよ、そのお子さんが。……そう思ってしまう、本日のグレ耶蘇桜泉でした。
(で、イエス様ってのは、まさにそういう人間の世に来た神様の子なんですよ、ふだん敬虔そうなこと言ってて、わかってないんですねえ。なんて言っちゃあ失礼ですか…人様の信仰に茶々を入れてはいけませんね……ふっ。)

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