Milch's blog

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「忍者」あれこれ

2007年04月22日 | Weblog
●全国のさまざまな呼称

陸奥:陰術・早道の者

陸前:黒はばき

越後・越中:陰猿・軒猿・間士・聞者役・郷導・郷談

相模:草・かまり・忍・物見・乱破?・突破

甲斐:三者・透波・出抜

尾張・三河:饗談

加賀:偸組

越前:隠忍術・志能便

近江:甲賀忍

伊賀:伊賀忍・窮盗?・間議・測隠術

山城・大和:志乃比・伺見・奪口・水破

安芸:外聞

肥後:関やぶり

薩摩:山くぐり

・江戸時代までは統一名称はなかった。
「乱破(らっぱ)」「素破(すっぱ)」「水破(すっぱ)」「出抜(すっぱ)」「突破(とっぱ)」「透破(とっぱ)」「伺見(うかがみ)」「奪口(だっこう)」「草」「軒猿」「郷導(きょうどう)」「郷談(きょうだん)」「物見」「間士(かんし)」「聞者役(ききものやく)」「歩き巫女」「かまり」「早道の者」など。

・戦前は「忍術使い」といった呼称が一般的であったが、戦後は村山知義、白土三平、司馬遼太郎らの作品を通して、「忍者」「忍びの者」「忍び」という呼称が一般化した。飛鳥時代には、聖徳太子が、大伴細人(おおとものほそひと)を「志能備(しのび)」として使ったと伝えられる。

・「忍者」という呼称を初めて使ったのは、小説家の山田風太郎という説も。



●忍者の衣装
・「全身黒の衣装」「その中には鎖帷子を纏い、顔には墨を塗っている」「背中に刀」「夜陰に紛れて敵地に侵入する」というイメージで描かれることが多いが、黒は夜に像が浮いて見えることから、紺色もしくは柿の熟したような色の衣装を使用していたとされる。この衣装は、元々は甲賀地方や伊賀地方で使われていた野良着が元とする説がある。


・また、実際には「専用の」装束などは着用せず、その状況に合った服装(町中では町人の格好、屋敷などに侵入する場合には使用人の格好)


・忍者は戦うよりも逃げることに重点を置いていたため、通常は少しでも身軽になるよう重い鎖帷子は着用しない。背中に刀を背負うと地面を転がる際に邪魔になるため、普通の武士のように腰に下げることもあった。様々な特殊訓練を行い、特殊な道具なども所持しており、この道具を「忍具」、逃走術を「忍術」と言う。


・忍術には「陰忍」と「陽忍」がある。
「陰忍」‥姿を隠して敵地に忍び込み内情を探ったり破壊工作をする方法であり、通常イメージされる忍者とはこの時の姿である。
「陽忍」‥姿を公にさらしつつ計略によって目的を遂げる方法である。いわゆる諜報活動や謀略、離間工作などがこれに当たる。古武術には忍術の名残りが見られるものもある。


・近年の研究では、身体能力に優れ、厳しい規律に律された諜報集団という面の他に、優れた動植物の知識や化学の知識を持つ技術者集団としての一面も持つことが判っている。



●女忍び~くのいち
・女性の忍者のことを「くノ一(くのいち)」などと呼ぶ表現が、忍者をモチーフにした映像作品や漫画作品でよく見られる。

・これは“女”という文字を「く」「ノ」「一」と三文字に解体し呼称するようになった隠語表現であるとされる。

・忍術伝書『万川集海』の【久ノ一の術】は、間者としての女忍者の姿を伝える。

・男では潜入しにくいケースに女忍びを使った。例えば、女中として敵方の城に潜り込み、動静や秘密を探って報告した。

・また、久ノ一の術の中に隠れ蓑という術がある。これは、先に潜入させた女忍びに荷物を取り寄せさせ、その中に紛れて忍び入る方法だ。女性の荷物なのでチェックも甘い。

・つまり、現代に知られているような忍びの活動の手先として、補助的活動をしていた女忍びを「くのいち」と言う。

・「くのいち」という言葉は本来「九ノ一」が正しい。

・小説家の山田風太郎による造語という説もある。



●発祥と変遷
・忍者という存在の発祥については諸説ある。

・忍者は日本国内各地に分かれ、いくつかの集団を形成していた。その中でも甲賀や伊賀を本拠としていた忍者集団は有名である。これらの場所には多数の忍者屋敷があり、日々の訓練が行われていたと考えられる。甲賀と伊賀は、鎌倉時代にはその領地の大半が荘園であったため守護や地頭による支配を受けなかったが、戦国時代になり荘園が崩壊すると、地侍が数十の勢力に分かれ群雄割拠した。各地侍が勢力を保つため情報収集戦とゲリラ戦が日夜行われ、ここから「忍術」が自然発生したのではないかと考えられている。


・服部氏伝説
昭和37(1962)年 伊賀上野の旧家より「上嶋家文書(江戸時代末期の写本)」が発見された。これによると、伊賀国の服部氏族・上嶋元成の三男が申楽(能)役者・観阿弥で、また、その母は楠木正成の姉妹であったという。すなわち、観阿弥は楠木正成の甥であったということになる。観阿弥の息子・世阿弥も「先祖は服部氏」と自称していた。


・伊賀国では、藤林・百地・服部の上忍三家が他の地侍を支配下に、最終的に合議制を敷いて、戦国大名に支配されない地域を形成していた。外部からの侵略に対しては結束して戦い、織田信長が伊賀国を支配するために送り込んだ築城奉行・滝川雄利を追放、さらにはその報復として攻め込んできた織田信雄の軍も彼らは壊滅させている(第一次天正伊賀の乱)。改めて大軍を編成し攻め込んできた際に、伊賀国の忍者集団は壊滅的な打撃を受けたが(第二次天正伊賀の乱)、百地丹波以下100名が紀州の根来へと落ち延びたと言われる。


・徳川幕藩体制下
伊賀忍者は本能寺の変の際に、堺の見物に訪れていた徳川家康を護衛して伊賀越えを行なったことから、徳川幕府に召抱えられるようになった。彼らは、徳川幕府のために諸大名の内情を探るだけでなく、江戸城下の世論調査、大奥の警護、空き家となった諸屋敷の管理なども担当し、さらには同心として江戸城下の治安の警護に当たった。なお、御庭番は忍者と同様に思われがちだが、これは誤りであり八代将軍・徳川吉宗が紀州から連れて来た薬込役を伊賀者と同格に格付けしただけでしかなく彼ら御庭番は忍者とはかかわりがない。


・江戸時代の諸国を行脚していた俳諧師・松尾芭蕉は、現在の三重県伊賀市に当たる地方の出身者であった。そのため、松尾芭蕉は実は忍者あるいは隠密だったのではないかとする説があり、このことは小説などでも題材に扱われている。また、江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎も公儀隠密説が囁かれている。



●上忍・中忍・下忍
・上忍
忍術使いの秘密組織の頂点に立つ者を上忍という。
上忍は、豪族・土豪として小大名的な存在であり、自ら忍術を使うことは殆どないと言っていいだろう。
伊賀全土に秘密の部下を配置し、その密偵組織を働かせて、群小豪族の依願に応じて諜報・謀略の役目を果たした。

・中忍
上忍が司令官なのに対して、その部下の部隊長といった役割を受け持つ者を中忍という。中忍は組頭として何人かの手兵を持っており、行動する時に当たっては、自分も忍術使いとして先頭に立って陣頭指揮をする。身分は、殆ど郷士・士分の者である。

・下忍
上忍や中忍の指揮に従って、実際に忍術使いとしての仕事を果たすのが下忍である。いわゆる下働きの忍術使いだ。
この下忍が、現在一般常識になっている忍者だ。
下忍は、それぞれに個性特徴を持っており、上忍は時に臨み、機に応じて彼等の技能を生かし活用した。


●忍具‥忍者が用いる武器・道具である。

・鉤縄 くない
「苦無」あるいは「苦内」とも表記される。
手裏剣 - 手投げの刃物。形は棒状のものから十字型、円形のものまである。通常、携帯していた数は一個のみであったという。

・忍刀

・撒き菱 - 植物の種を使用したものは食用が可能であった。

・五色米 - 赤・青・黄・黒・紫の5色に染めた米。食用ではなく、仲間との連絡に用いた。

・忍装束
戦闘用に野良着を改造したもので、闇に紛れるため色は黒ではなく茶色に近いものを着用していたとされる。また、「六尺手拭」を覆面に用いる事もあった。


●忍術‥忍術とは、忍者が主に追っ手からの逃走に用いる術

・五車の術
喜車の術 - 相手をおだてて隙を伺う。
怒車の術 - 相手を怒らせ冷静さを失わせる。
哀車の術 - 相手の同情を誘う。
楽車の術 - 相手を羨ましがらせて戦意を喪失させる。あわよくば相手を味方に引き込める。
恐車の術 - 迷信などを利用し相手の恐怖心につけこみ戦意を喪失させる。

・遁術
火遁の術 水遁の術 土遁の術 木遁の術 金遁の術 虫獣遁の術

天唾の術 獅子身中の術

・忍者八門 - 流派無関係にある必修科目
骨法術 気合術 剣術 手裏剣術 火術 槍術 遊芸 教門

・七方出で立ちの事
忍者は敵地に潜入する時など、その正体や目的を隠すために変装を用いた。七項目に分類される職業のものになりすますため、忍術伝書では変装のことを「七方出で立ちの事(七化)」という。虚無僧、出家(僧侶)、山伏、商人(薬売りやあめ売りなど行商人)、放下師(手品師、軽業師、猿回しなど)、猿楽師(歌舞音曲の旅役者)、常の形(農民や武士)



●著名な忍者衆
伊賀 甲賀 風魔 根来 軒猿 戸隠 透破 羽黒 黒脛巾 外聞 鉢屋 山くぐり



●主な流派
青木流 暁流 芥川流 伊賀流 一全流 伊藤流
上杉流 宇命流 越前流 加治流 紀伊流 紀州流
玉心流 楠木流 黒田流 甲賀流 甲陽流 雑賀流
薩摩忍法 武田流 多羅尾流 戸隠流 戸田流
中川流 名取流 南蛮流 忍光流 根来流 白雲流
羽黒流 波多野流 服部流 備前流 風馬忍法
福島流 福智流 北条流 松田流 松葉流 松本(元)流
美濃流 百地流 理極流



●九字護身法
手で印を結んでパッと姿を消す・・・
昔の忍者映画や忍者漫画でよく見られたシーンではあるが、まさか本当に消えるわけではない。
この印を結ぶのは「九字護身法」のこと。
「護身法」と言っても、これで身を守るというわけではなく、精神集中や自己暗示のための、言わばおまじないのようなものだ。
重要な任務に就く前や、敵地に侵入する前などに精神を統一し、「こうすれば大丈夫」と強烈な自己暗示をかけるために行なった。
つまり九字護身法とは、心の不安や動揺を打ち消す精神安定の方法なのだ。
「九字護身法」には、両手で印を結ぶ方法の他、右手人差し指と中指を刀に見立てて九字を切る方法がある。
さらに「九字九通り」といって「切上九字」「切下九字」「逆九字」「不動九字」など、八十一種類の方法があったという。


●著名な忍者~実在した有名な忍者

伊賀崎道順 - 戦国時代の伊賀者

石川五右衛門

出浦盛清(いでうら もりきよ)戸隠

鵜飼孫六 - 戦国時代の甲賀者

果心居士

加藤段蔵(飛び加藤・鳶加藤)戦国時代の軒猿衆

霧隠鹿右衛門

高坂甚内 - 戦国時代の透破 甲州流

上月佐助

佐田彦四郎 - 戦国時代の外聞

杉之坊照算(自由斎) - 戦国時代の根来衆

杉谷善住坊 - 戦国時代の甲賀者

世鬼政時 - 戦国時代の外聞

多羅尾光俊(道賀斎) - 戦国時代

柘植三之丞(柘植清広) - 安土桃山時代の伊賀者

津田算長 - 戦国時代の根来衆

二曲輪猪助(にのくるわ いすけ)- 戦国時代の風魔党

服部半蔵正成 - 徳川家の旗本

風魔小太郎 - 戦国時代伊豆の忍者。北条家に仕えた風魔党

百地丹波 - 戦国時代 架空の人物である百地三太夫のモデルとなった実在人物。

柳原戸兵衛 - 戦国時代の黒脛巾衆

山中俊好(山中俊房) - 甲賀忍者の旗頭の一人

横谷左近(横谷幸重) - 戦国時代の戸隠 真田流

世瀬蔵人 - 戦国時代の黒脛巾衆



●忍者と関係のある人物

大林坊俊海 - 戦国時代 陸奥の修験者

日下茂平(くさかもへい) - 高知県の日高村に実在した人物

喜多村弥兵衛 熊若 雑賀孫一 鈴木左太夫
鈴木重朝 篠山資忠 滝川一益 滝野吉政
太宰金助 禰津潜竜斎 蜂須賀正勝 鉢屋弥之三郎
服部半蔵正就 服部半蔵正重 服部郷八郎正広 服部康成
和田惟政 山岡道阿弥 植田光次 森田浄雲

藤田西湖 - 昭和中期まで生きていた甲賀流忍術14世。最後の忍者と呼ばれ、陸軍中野学校でも教師を務めた。

藤林長門守藤林正保 - 戦国時代 伊賀の三大上忍の1人。甲賀側にも多くの配下を持ち伊賀、甲賀を支配した。

藤林保武 - 『万川集海』の執筆者。

松尾芭蕉 - 忍者説がある。

山本勘助 - 新田次郎の小説『武田信玄』で、忍者として描かれた。

間宮林蔵 - 隠密。蝦夷地探索や薩摩潜入を成し遂げた。



●架空の忍者

カムイ- 比較的近年に創造された架空の人物。白土三平『カムイ伝』に登場する下忍。

猿飛佐助 - 真田十勇士の一人

霧隠才蔵 - 真田十勇士の一人

獅子王院

児雷也(じらいや 自来也・我来也) - 架空の人物

世鬼政清(せき まさきよ) - 架空の人物

飛騨の赤影



●甲賀流忍術屋敷
http://www.kouka-ninjya.com/



●近鉄伊賀線ペイント列車「くのいち号」(上野市)
http://www.asahi-net.or.jp/~PU7T-KMR/igaueno/iga5.htm



参考にしたHP
http://sengoku-ninja.seesaa.net/
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%A6%BC%D4
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