●直江兼続年表
和暦(西暦)兼続の年齢
永禄3年(1560)1歳
坂戸城(新潟県南魚沼市六日町坂戸)の城主、長尾政景の家臣・樋口惣右衛門の嫡男として誕生。母は、信濃の武将泉弥七郎重蔵の娘といわれる。
上杉謙信31歳。また、政景の長男であり、後の兼続の主君、長尾景勝は6歳。
3月30日 謙信、はじめて越中に出兵する。
8月29日 謙信、はじめて関東に出兵する。
この年5月19日 桶狭間で織田信長、今川義元を破る。
永禄4年(1561)2歳
3月 謙信、関東管領上杉憲政を擁して、佐竹義重、長野業正、成田長泰ら旧上杉家家臣団10万の大軍で小田原城を包囲する。
閏3月16日 長尾景虎、鶴岡八幡宮で関東管領山内上杉家を相続し上杉政虎と改名。
9月10日 謙信、第4回川中島合戦。激戦となる。
12月 第13代将軍足利義輝の一字を賜り、輝虎と改むる。
永禄5年(1562)3歳
この年 兼続の弟樋口与七(のちの大国実頼)誕生する。
永禄7年(1564)5歳
7月5日 坂戸城主長尾政景と琵琶島城主宇佐美定満が野尻池で舟遊び中に溺死。
のちに喜平次顕景(のちの景勝)、謙信の養子となる。
この年 第5回川中島合戦。
永禄8年(1565)6歳
5月19日 第13代将軍足利義輝、三次三人衆に殺害される。
永禄11年(1568)9歳
3月 信玄を牽制するため輝虎、宿敵である北条氏康と同盟する。(越相同盟)
5月7日 輝虎の生母虎御前、没する。
この頃 兼続、坂戸城主長尾政景の子喜平次顕景(のちの景勝)の近習となる。
10月18日 足利義昭、室町幕府第15代将軍となる。
元亀元年(1570)11歳
3月5日 上杉輝虎、北条氏康の七男氏秀(このとき17歳)を養子として迎える。
4月25日 輝虎、氏秀に「景虎」の初名を与える。
長尾政景の娘を景虎の室とし、春日山城二の郭に置く。
12月13日 輝虎、春日山城看経所に越中平定の祈願文を納める。
輝虎、法号を「謙信」と改める。
この年 金ヶ崎の戦い、姉ヶ崎の戦い
元亀2年(1571)12歳
北条氏康、死去する。
後を継いだ北条氏政、上杉との同盟を破棄する。
元亀3年(1572)13歳
この年 三方が原の戦い
元亀4年(1573)14歳
武田信玄、病没する。
天正元年(1573)14歳
6月 織田信長、将軍足利義昭を追放、室町幕府滅亡する。
天正3年(1575)16歳
この頃から、兼続、謙信の薫陶を受ける。
1月11日 謙信、養子の喜平次顕景に加冠し景勝と改名させ、弾正少弼の官途を譲る。
2月16日 謙信、家臣団の軍役を定める。「上杉家軍役帳」
(直江景綱は、鑓100梃、手明30人、鉄砲20梃、大小旗20本、馬上35騎の計205人の軍役を負担)
この年5月21日 長篠の戦い。織田徳川連合軍が武田勝頼を破る。
天正4年(1576)17歳
2月 謙信、信長との戦いで苦境に立たされていた本願寺顕如と講和する。このとき、武田勝頼とも和睦して信長との同盟を破棄し、新たに謙信を盟主とする信長包囲網を築き上げる。
天正5年(1577)18歳
4月5日 直江景綱、与板城で没する。享年70歳。
9月23日 手取川の戦い 加賀国手取川において上杉謙信、柴田勝家率いる織田軍に大勝する。
12月18日 謙信、春日山城に帰還する。
天正6年(1578)19歳
3月13日 謙信、春日山で死去。法号、不識院殿心光謙信 享年49歳。
養子景勝と三郎景虎の間に家督相続をめぐって御館の乱が起きる。
天正7年(1579)20歳
3月24日 三郎景虎、鮫ヶ尾城で自刃。享年26歳。
10月20日 跡を継いだ景勝、武田勝頼の妹菊姫と結婚。
天正8年(1580)21歳
7月17日 景勝、御館の乱の論功行賞として直江兼続に河海免除の船一艘を与える。
8月15日 兼続、佐藤庄左衛門と皆川式部丞に御館の乱の論功行賞として知行状を交付する。(兼続署名の初見)
天正9年(1581)22歳
6月16日 新発田城主新発田重家、織田信長に通じ景勝に背く。
9月1日 直江信綱と山崎秀仙が毛利秀広に殺害される。
10月頃 直江家の断絶を惜しんだ上杉景勝の命で直江景綱の娘で直江信綱の妻であったお船の方(25歳)の婿として結婚し、直江家を継ぎ、越後与板城主となる。
天正10年(1582)23歳
3-6月 織田軍に攻められ、上杉家滅亡の危機に瀕す。魚津城の戦い。6月3日落城
6月2日 信長、本能寺の変で自刃。
6月-10月29日 天正壬午の乱 甲斐・信濃・上野で繰り広げられた徳川家康と北条氏直の戦い。
11月5日 兼続の弟樋口与七、天神山城主小国三河守重頼の家を相続する。主命による。
天正11年(1583)24歳
3-4月 羽柴秀吉、賤ヶ岳において柴田勝家を破る。4月24日 勝家自刃。
この年より 直江兼続、山城守を称する。
天正12年(1584)25歳
この年の末 狩野秀治が病に倒れ、直江兼続が内政外交の取次のほとんどを担う。
狩野秀治の死後、兼続は単独執政を行なう。
3-11月 この年、小牧・長久手の戦い。
天正13年(1585)26歳
7月11日 秀吉、従一位、関白宣下される。
8月27日 政宗、小手森城(おでもりじょう)を陥す。城主・菊池顕綱をはじめとする敵将や敵兵だけでなく、城内にいた女や子供もまでも殺害する。
8月 富山の役 羽柴秀吉、佐々成政を降す。
(景勝 落水にて秀吉と会談する 伝承)
閏8月末 秀吉、大坂城に凱旋する。
11月13日 石川数正、徳川家康のもとから出奔し、秀吉のもとへ逃亡する。
11月17日 人取橋の戦い(ひととりばしのたたかい) 佐竹氏と南奥諸大名の連合軍が伊達政宗を撃破する。
天正14年(1586)27歳
3月5日 結納の使者本多忠勝、聚楽第に伺候し秀吉に謁見する。
この日、家康 伊豆三島で氏政・氏直父子と対面する。
3月19日 兼続、伊達政宗に書状を送る。
4月6日 大友宗麟、秀吉の案内で大坂城を見学する。
4月下旬 家康と旭姫の婚儀。
5月16日 石田三成、兼続に書状を送り、景勝の上洛を促す。
5月20日 景勝、甘粕景継・色部長真・本庄繁長等に留守を命じ、上洛の途につく。兼続も従う。
6月7日 入京、六条本国寺を宿とす。
6月14日 景勝、秀吉と大坂城で会見、白銀500枚、越後布300反を贈る。(初めての上洛)
景勝、秀吉に養子であった畠山義真(当時は上杉姓)を人質として差し出す。
6月16日 秀吉、景勝を茶の湯に招く。千利休、兼続と千坂対馬守を茶の湯に招く。
6月21日 上杉景勝、従四位下左近衛権少将に叙位任官する。
兼続、従五位下に叙せられる。
6月24日 景勝・兼続、京都を出発。
7月6日 帰国。
8月 上杉景勝、新発田重家征伐のため出陣。
9月28日 豊臣秀吉、景勝と重家の調停をさせるが、不調に終わる。
9月9日 羽柴秀吉、朝廷より豊臣の姓を賜る。
10月21日 家康、上洛のため岡崎を発つ。
11月2日 家康、上洛して聚楽第で秀吉と会見する。
11月5日 家康、秀長と共に正三位権大納言に叙せられる。
12月19日 秀吉、太政大臣に宣下される。
天正15年(1587)28歳
1月1日 秀吉、大坂城で年賀を受ける。九州征伐の陣触れを発する。
5月1日 新発田攻めのため景勝・兼続出陣。
5月 島津、秀吉に降伏する。
8月 景勝・兼続、再び出陣。
9月13日 聚楽第完成し、秀吉移徙する。
10月13日 兼続は藤田信吉らと共に新発田城の支城の五十公野城を陥落させる。
10月25日 新発田城落城、乱は収束する。新発田重家、自刃。
11月 春日山城に帰城。
10月28日 景勝、新発田討伐を秀吉に報じ、九州を平定と聚楽第完成を祝すため、兼続の弟実頼を上洛させる。このとき従五位下但馬守に任じられると共に景勝の命により、苗字を大国と改める。
11月16日 景勝、新発田討伐を伊達政宗に報ず。この日、政宗、兼続に書状を送り祝賀す。
この年 豊臣秀吉、九州を平定。聚楽第築造。
12月 秀吉、惣無事令(関東・奥州)発する。
天正16年(1588)29歳
2-5月 大崎合戦 伊達政宗、大崎義隆・最上義光連合軍と争う。政宗の母義姫(義光の妹)が戦場に現れて両陣営の間に割って入り、義光に停戦を懇願、和睦が成立する。この最上義光の大崎救援の隙をついて上杉景勝が惣無事令を無視して最上領庄内に侵攻、これを奪う(十五里ヶ原の戦い)。
4月14日 後陽成天皇、聚楽第に行幸する。
4月16日 直江兼続の父樋口兼豊、伊予守に任じられる。
4月20日 兼続、景勝に従って上洛する。(2度目の上洛)
5月7日 京都本国寺に到着する。
5月26日 景勝、従三位参議に昇叙。この時、秀吉から豊臣の姓と羽柴の苗字を授けられる。
6月15日 秀吉、景勝に京都一条戻橋に屋敷地を与える。在京中の賄料に近江国から一万石下賜する。
8月17日 兼続、従五位下山城守に叙任される。また、豊臣の姓を授けられる。
同じく景勝の家臣色部長真、従五位下修理太夫に叙任される。
上洛中、景勝に従って高野山に参詣。
8月下旬 兼続、景勝に従って帰国。
7月8日 豊臣秀吉、刀狩令を発布。
この頃 兼続、前田利益(慶次郎)と出会う。
この年 茶々(淀殿)、秀吉の側室となる。
この年8月 景勝の家臣本庄繁長、伊達政宗の動きから最上義光が動けないのを好機と捉え、繁長、義勝父子は庄内に侵攻する。十五里ヶ原の戦い(8月)で反大宝寺国人連合と最上軍に壊滅的打撃を与え、大勝利する。これにより繁長は庄内地方を制圧し、義勝は豊臣秀吉に謁見し、上杉景勝配下の武将として公認される。
天正17年(1589)30歳
4月15日 葦名義広の将山名氏信、兼続に書状を送り、伊達政宗来攻の噂を報じ、救援を要請。
5月13日 大宝寺義勝、春日山城に来城 景勝に太刀・馬・金・鷹等を献上。
6月5日 摺上原の戦い 米沢城主伊達政宗、会津蘆名義広・佐竹氏連合軍を破る
蘆名義広は佐竹氏のもとに逃亡し、鎌倉時代以来の名族蘆名氏は完全に滅亡。
伊達政宗は南奥州の覇者となり、居城を会津黒川城へ移す。
6月12日 景勝、本間高統の河原田城(佐渡市)を攻略。
6月16日 景勝、本間高茂の羽茂城(佐渡市)を攻略。
6月 佐渡の本間氏を討伐し、佐渡を平定。
7月17日 石田三成、兼続に葦名義広の救援を要請。
12月26日 佐竹義宣、兼続に景勝の会津出陣を要請。
天正18年(1590)31歳
3‐11月 小田原征伐に出陣
前田利家らの軍勢と共に上野国松井田城、武蔵国鉢形城、武蔵国八王子城を攻略。
11月下旬 景勝・兼続、春日山城に帰る。
文禄元年(1592)33歳
文禄の役はじまる
3月1日 兼続、景勝に従い兵5000を率いて春日山城を出発。
4月7日 豊前名護屋に到着する。
6月2日 直江兼続が豊臣秀吉の乗船小鷹丸に乗り、上杉景勝に従って渡韓。兵5000を引き連れる。
6月17日 釜山浦に着岸し、熊川城(慶尚南道鎮海市熊川洞南山にある倭城)を修築する。
この頃 実頼、連歌師里村紹巴の催す連歌会に度々参加し、『米府侍組由緒』には「能書、連歌の上手」と評される。
文禄2年(1593)34歳
1月10日 兼続、景勝とともに朝鮮陣中で連歌会を開催する。
7月 この月まで朝鮮に在陣する。兼続、朝鮮で漢籍を収集する。
9月8日 上杉景勝と直江兼続の主従、名護屋に帰陣。
閏9月 兼続、越後府中に帰る。
この年 本庄繁長の子主馬長房が兼続の養子となり与次郎と改名。のちに理由あって生家に帰る。
文禄3年(1594)35歳
3月23日 兼続、上杉景勝に従って上洛。豊臣秀吉の命により伏見城総構堀普請に従事。
8月18日 景勝、従三位権中納言にすすむ。越後中納言と呼ばれた。
9月 景勝、家臣団の知行定納高を調べ、「文禄三年定納員数目録」を作成。
(兼続の知行高は53,217石、公約人数3,193人)
この年 兼続、嫡男平八景明誕生する。幼名竹松
この年 兼続、大谷吉継より病気見舞いの感謝状を受ける
文禄4年(1595)36歳
1月 景勝、秀吉より越後・佐渡の金山の支配を任せられる。
小早川隆景が家督を小早川秀秋に譲り隠居したため、上杉景勝、五大老となる。
慶長2年(1597)38歳
慶長の役はじまる。
1月20日 兼続、伏見城改築にあたり秀吉より伏見舟入奉行に命じられる。
兼続、越後人夫4000人を使い、自ら監督する。完成後、秀吉より普請場御殿を賜る。
慶長3年(1598)39歳
1月10日 景勝、越後から会津120万石移封。
兼続、米沢30万石を領す。(異説 6万石 寄騎を含めると30万石)
3月24日 景勝、越後より会津に入り、家臣を領内に配置。
兼続、米沢城に入る。
8月18日 秀吉、伏見城で死去。
9月 景勝、秀吉の葬儀のため、上洛する。兼続は景勝に先立って上洛。
12月下旬 遺命により、兼続、太刀兼光一腰拝領する。
前田利益(慶次郎) 慶長3年から関ヶ原の役が起こった慶長5年までの間に上杉家に仕官し、兼続の与力として1000石を受ける。
慶長4年(1599)40歳
1月5日 秀吉の死を公表する。
1月10日 秀頼、伏見城から大坂城に移る。
2月29日 秀吉の葬儀、行われる。
閏3月3日 前田利家、大坂の自邸で病死。享年61
閏3月10日、三成、家康の次男結城秀康に守られて、佐和山城に帰城する。
8月3日 景勝、伏見を発し国許に向かう。
8月22日 景勝、若松城に帰る。兼続、病気のため数日遅れて帰国。
9月 家康、重陽の節句による祝意を秀頼に述べるため大坂に赴く。
慶長5年(1600)41歳
景勝の家臣藤田信吉、景勝の代理で新年の祝賀のために上洛する。この際家康は信吉に対し銀子、青江直次の刀等を送る。帰国後、兼続からの圧力を受けて、上杉氏からの出奔を余儀なくされ徳川秀忠のもとに難を逃れた。このとき、信吉が家康と秀忠に対して「上杉氏に謀反の疑いあり」と言上したことが、関ヶ原の戦いの契機となったといわれる。
景勝、神指城築城に着手し、兼続が総指揮を執る。
3月13日 景勝、謙信の23回忌法要を営む。
4月13日 承兌の書状、兼続に到着する。
5月3日 兼続の返書、承兌に到着する。
兼続、徳川家康に「直江状」を送りつける。会津征伐を命じる。
9月14日 兼続、進軍して上之山・長谷堂両城を攻撃。
9月15日 関ヶ原の戦い。9月29日 西軍の敗報、米沢に伝わる。
出羽国羽前の最上義光を攻めるが、西軍の敗戦により米沢城に退却。
慶長6年(1601)42歳
7月24日 兼続、景勝に従って伏見邸に入る。
上杉景勝とともに上洛して徳川家康に謝罪する。
8月17日 景勝、米沢30万石に減封。
11月28日 景勝、6000人の家臣をつれて米沢城に入る。
慶長7年(1602)43歳
9月12日 兼続の父樋口兼豊、死去。
10月 兼続、景勝の名代として江戸登城。
慶長8年(1603)44歳
2月12日 徳川家康、征夷大将軍となり江戸に幕府を開く。
3月7日 景勝、兼続に本多正信を通じて秀忠に家康将軍宣下の祝賀を述べる。
慶長9年(1604)45歳
2月16日 景勝の妻菊姫、京都で死去。
閏8月中旬 兼続、本多正信の二男左兵衛政重を養子とし、長女お松の婿とする。
景勝、政重に偏諱を与えて大和守勝吉と称させ、1万石を給する。
9月 兼続、近江国友村の吉川総兵衛・和泉堺の和泉屋杢右衛門を招いて白布高湯で鉄砲を鋳造させる。
11月 兼続、鉄砲稽古定を作成。
大国実頼、実兄兼続と本多政重との養子縁組に反対し、政重を迎えるために上洛した使者を伏見宿にて殺害し、高野山に逃れた。以後、高野山に隠遁していたが兼続の死後、米沢北郊の中小松村に戻り元和8年(1622年)に死去。
慶長10年(1605)46歳
1月 兼続の次女お梅死去。8月17日 長女お松も病死。
4月16日 徳川秀忠、2代将軍となる。
慶長11年(1606)47歳
5月13日 徳川秀忠から上杉景勝に桜田邸右向かいの鱗屋敷を賜い、兼続そこに住居する。
11月 景勝、禁裏造営の役を務める。
慶長12(1607)48歳
3月8日 兼続、京都日蓮宗法要寺において文選30冊を刊行。
閏4月1日 景勝、奥羽の諸将伊達政宗・蒲生氏郷・佐竹義宣・最上義光等と江戸城天守台と石垣を築く。
10月 景勝、法度13ヵ条を家臣に頒布する。
慶長13(1608)49歳
1月4日 直江兼続、重光と改名する。
米沢城下に堤防を築いて町を整備し、殖産興業・鉱山の開発を推進。
米沢藩の藩政の基礎を築く。
慶長14年(1609)50歳
6月 幕府、上杉藩に十万石の役銭を免除。
6月 直江大和守勝吉、安房守と改名する。
9月 兼続、大国実頼(弟)の娘を養女とし、勝吉(政重)に嫁す。
12月2日 嫡男景明、本多正信の媒酌で近江膳所城主戸田氏鉄の娘と結婚する。
慶長16(1611)52歳
夏頃 兼続の養嗣子、直江安房守勝吉(政重)が上杉家を去り本田正信のもとへ帰る。
のちに前田利光に仕え、本多安房守政重と称する。
慶長17年(1612年)54歳
前田利益(慶次郎) 米沢近郊の堂森(現、米沢市万世町堂森)で没する。享年70歳前後
慶長18年(1614)55歳
景勝、松平忠輝の居城高田城築城の際、伊達政宗の指揮の下天下普請を行なう。
大坂冬の陣
上杉軍、鴫野口の合戦で後藤基次(後藤又兵衛)軍に勝利する。
兼続、嫡男平八景明と殿軍を務める。
兼続、徳川秀忠より感謝状と太刀一腰ならびに小袖を拝領する。
元和元年(1615)56歳
大坂夏の陣
2月 景勝、下国する。
4月10日 兼続、景勝とともに米沢城を出発し、下旬、大坂に着陣。
上杉勢、大坂夏の陣では京都警備を担当し、八幡山に布陣する。
5月8日 大坂城落城。豊臣秀頼、淀君自刃。豊臣氏滅亡する。
6月 兼続、景勝とともに米沢城に帰る。
7月12日 嫡男平八景明死去。
元和2年(1616)57歳
4月17日 徳川家康、死去する。 享年75歳
元和3年(1617)58歳
6月7日 景勝、江戸を出発して上洛する。
元和4年(1618)59歳
この年 兼続、臨済宗禅林寺を米沢城北に創立して僧九山を開山とする。
のちに法泉寺と改称。
元和5年(1619)60歳
12月19日 兼続、江戸鱗屋敷にて病没する。享年60歳
幕府から、香典銀50枚を賜る。景勝から銀50枚、徳川秀忠から銀50枚が送られた。
米沢の徳昌寺に埋葬、後に林泉寺に改葬。
元和9年(1623)3月20日
景勝、米沢で死去。享年69。後を庶長子定勝が継ぐ。
寛永14年(1637年)
妻お船が江戸の屋敷で死去。兼続死去から18年後
大正13年(1924)
2月11日 宮内省より従四位を追贈された。
●人物評価
豊臣秀吉は「この世に政治ができるのは直江(兼続)と小早川である」と言ったといわれる。もっとも、秀吉はその後に「ただし、天下を取るには直江は知恵が足りず、小早川は勇気が足りない」と続けたという。
兼続について生前親交があった僧侶は「人というものは利を見て義を聞こうとしないものだ。そんな中で直江公は利を捨て義をとった人だった」と評している。
『常山紀談』では「大男にて、百人にもすぐれたるもったいにて、学問詩歌の達者、才知武道兼ねたる兵なり。恐らく天下の御仕置にかかり候とも、あだむまじき仁体なり」とあり、それに続いて「長高く容儀骨柄並びなく、弁舌明に殊更大胆なる人なり」と兼続を高く評価している。
●史料「文禄三年定納員数目録」(米沢市上杉博物館所蔵)
文禄三年(1594年) 当時の景勝家臣二千人の記録
1万石に換算すると 600人
当時の上杉家 総石高が九十万石とすると、総動員数は 5万4千人
直江兼続 五万三千二百十七石 軍役319人
須田満親 一万二千八十六石 725人半
泉沢久秀 五千六百四十三石 338人半
大国実頼 九千四十一石 542人半
清野長範 四千百七十七石 250人半
千坂景親 二千百七十六石 130人半
黒川為実 千六百六十五石 100人
志駄義秀 千五百六十三石 93人7分
参考にさせていただいたHP
http://www.tofuya.jp/naoe_4.htm
http://d.hatena.ne.jp/butainudenka/20080105
http://www.nhk.or.jp/niigata/2009taiga/nenpyou.html
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