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「これから日本が直面する「無子超高齢化」の厳しすぎる現実」

2019-07-05 06:02:44 | 日本

「老後2000万円」問題を考える

井戸まさえさんが「これから日本が直面する「無子超高齢化」の厳しすぎる現実」について掲載している。
以下、要約し記す。



◎老後2000万円必要」発言の余波

老後の金融資産が約2000万円必要とする試算を盛り込んだ金融庁の報告書に対し、諮問をした麻生太郎金融相が「正式な報告書として受け取らない」と発言、さらには森山国会対策委員長が「この報告書はもうなくなっている」と火消しをしようとしたが、逆に問題が拡大している。
菅官房長官は「公的年金は将来にわたり持続可能な制度を構築しており、年金こそが老後の生活設計の柱だ」と年金制度に問題はないと強調するも、騒動を止めることはできていない。
なぜか。当然ながら「年金」はすべての国民の関心事で、老後の生活基盤そのものだからだ。
 
ただ、今回指摘されるまでもなく、公的年金制度は制度的問題を抱え、幾ばくかの貯蓄等が必要だということは、程度の差こそあれ、これまでも誰でもが感じていることだっただろう。
しかし、今回、金融庁という公的機関から現実に「2000万円」という数字が発信されたことで、ぼんやりと思い描いていた不安が、老後に備えている層も含めてリアルな数字として迫ってきたからこその「炎上」である。

その発火点は麻生財務大臣が「オレが産まれた頃の平均寿命は幾つだったか、知ってるか?」といつもの上から目線の口調でいい「47歳です」と得意げに答えた時だ。
麻生大臣が産まれたのは戦時中の1940年だ。戦死者がいる中での数字を持ってくるとは。それで国民を納得させようとする姑息さ、そして納得するだろうと思っている不遜さ。「詭弁」を使って、ごまかそうとしていることを敏感に感じ取ったのである。


◎長寿化と金融商品

さて、麻生大臣が指摘する平均寿命は終戦直後こそ50歳だったが、その3年後の1948年には男性55.60(女性59.40)歳、1951年には60.8(64.90)歳となり、1971年に70.17(75.58)と70歳台に突入、直近は2018年の81.09(87.26)となっている。長寿化はすでに70年代から予想されていたことなのだ。

それを示すのは新たな金融商品の登場だ。老後生活資金準備へのニーズが増大したことで、「医療保障」だけでなく老後を生きるための「生活保障」が求められるようになる。そして、1979年以降、保険会社各社は相次いで「個人年金保険」を発売し始めたのだ。


1984年には個人年金保険料控除制度が創設され、税制面での優遇措置もあって「養老保険」「終身保険」「個人年金保険」といった貯蓄性商品が積極的に売られていく。

それらに加入した人たちは公的年金だけでは老後望む水準の生活を過ごせるかどうか、また平均寿命が延びる中、自分たちの老後がいつまで続くかも不安だからこそ、貯蓄や投資を行ったのである。

ことほど左様に歴史的経過を見ても麻生大臣が言うように「いきなり100って言われて」というのは不見識である。少なくとも、30〜40年前から国民は「長生きする金銭的リスク」に関しての認識していたのだ。

ただ、公的年金だけでは老後は保障されないとわかりながらも、さすがに「最低限の暮らし」ぐらいは確保できるだろう等、どこかで「国のやることだから、最後は大丈夫」と思う、いや思わせて欲しいとの願望も含めた気持ちが、逆に自民党政権の継続を選ばせてきたのかもしれない。
 

◎1.57ショックと「老後破産」

「私、二十七歳、フリーライター。またしても保険なんかに加入してしまった。しかも年金保険という最もみっともないと思っていた種類の保険に入ってしまったのだ」
今の話ではない。ちょうど30年前に話題を集めた「結婚しないかもしれない症候群」(谷村志穂著・主婦の友社)の一節だ。

昭和が終わり、平成が始まった1989年に合計特殊出生率が1.57となる。迷信による「産み控え」があった丙午の1.58を下回ったことは衝撃をもって受け止められた。

子どもがいなくなり、少子化が進めば社会保障、特に年金は立ち行かなくのではないか。「少子」と「高齢化」の因果による「老後破綻」が初めてリアルに意識された時かもしれない。
そこで注目を集めたのが「結婚するかもしれない」けど「しないかも」、「子供も生まないかも」と、それまでの社会の結婚圧力から解き放たれた若い女性たちの存在だった。

それから30年が経つが、驚いたのは同著が「年金保険」について言及していることだ。
谷村氏は「ほんの取材のつもり」で電話をしたら、仕事場にセールスレディがやってきて30分後には「年金保険」の契約書に判子を押していたことを臨場感あふれる文章で綴る。当時の保険会社の勧誘の言葉はこう、だ。

「国民年金はですね、現在の段階で一人あたり月々六万円程度しか支給されないんです。これが将来に二十年後になりますと、おそらく二万円程度になります。お小づかいにもなりませんね。
(中略)
年金なんて一昔前は四十歳代になって初めて考える方が多かったんですけど、最近は違います。この七月からは加入開始年齢が二十歳まで下がったんですが、加入者がいるんですよ、これが。二十歳から年金に入ってしまうかたが実に多いんですから」(同著・原文ママ)
 
谷村氏が入った年金保険の毎月の保険料は、月々1万6千円だという。20歳から60歳まで払うと年金保険料は総額で768万円である。

一方で60歳から10年間、一年300万円ということは全額3000万円となる。768万円払って、3000万円の戻り。

物価スライドを反映しない民間の年金保険はリスクも高いと言われるが、こうなると運用等も含めて、一体公的年金はどうなのかと、不信・不満が募るだろう。

ちなみに1989年当時の国民年金の額は月々7700円(現在は1万6410円)。民間保険料とは約2倍の差があるし、国民年金や厚生年金は世代間の相互扶助だとわかっていても、この差を見ると「納め損」的感覚をもってしまうのもわかる。
現在56歳前後となったこの世代。当時個人年金に加入していたならばあと4年もすると受け取りの時期がやってくる。

悠々自適かと思いきや、周囲に聞くと勢いで加入したものの高騰する教育費等を理由に途中で保険を解約したり、貸付ですでに出金したりしているケースも少なくない。
バブルの頃には「一時払い養老保険」等で貯蓄運用を行なっていた学生も多かったことを考えると、30年前はそこまでリアルでなかった「老後破綻」の危機を煽りながら年金がらみの「財テク」金融商品が開発され、売り込まれてのかもしれない。

そして、結果的にその未来予想は「少子高齢化」を超えて「無子超高齢化」として的中しつつあるのだ。


◎「無子高齢化」の恐怖

先日発表された昨年の出生数は91万人、合計特殊出生率(1人の女性が産む子どもの数)は1.42、死亡した人の数から生まれた子どもの数を差し引いた減少幅は11年連続で過去最大となったと発表された。

このニュースは新聞各紙の一面に掲載されたものの、特段の反響もなく、ある意味少子化が「当たり前」の事実として受け止められていることを示している。
 
日本の人口は一年で40万人減少している。規模で例えるなら長崎市、高松市、柏市といった規模の行政区が丸ごとなくなっている、ということだ。
毎年500校もの小中高校が廃校になっており、すでに「出生児数がゼロ」が一年半に渡った京都府笠置町のような自治体も出現している。

たとえば今すぐに合計特殊出生率が人口置き換え水準の2.07になったとしても、そもそも出産可能年齢の女性の人口が減っているから、日本の人口減少は50年以上止まることはない。
現在100歳以上の高齢者は約7万人だ。2040年には高齢者一人に対して20〜64歳の現役は1.4人しかいない。1970年には8.5人、75年には7.7人だった。
ちなみに1975年と2040年の人口規模はほぼ同じ。だが社会の構造は大きく違う。何が起こるかは、推して知るべし、である。

働き手が少ないから、出前や24時間営業等を含めて今まで当たり前に受けていたサービスは今後、続々と不可能になっていくだろう。家族同士の扶助も難しくなってくる。

そうした中で社会保障などのセーフティネットの存在は、ますます大きくなっていくのは自明だ。そしてそれは「多くの他人」との連携で成立するものであるが、通常その姿を感じることはない。
両者の間には「政府」「国」があり、代替して国民同士の世代間扶助の仕組みを作っている(はず)だからだ。

それが「政治」の役割だが、麻生氏をはじめとしたアクターとしての政治家は、語れば語るほど結果的には「国民に対して見せたくない真実がある」ということを示してしまう。
最も隠したいのは、「支える他人」が消えていっていることだ。
公的年金制度の行き詰まりは、主として自民党が推進してきた少子化対策大失敗の歴史の責任であることが、老後の痛みとして国民に自覚されることを避けたいのである。
 
「年金こそが老後の生活設計の柱だ」と言いながらも、その支え手を人為的に消し去ってきた責任は誰一人取らないまま、「『老後破産』のリスクの回避のために2000万円を作りましょう!その際には税制面で一定の優遇措置がある「つみたてNISA」と「iDeco」がオススメです!」と言われても、そりゃないよね、それならまずは公的年金をどうにかしてくれ、と言うのが国民の本音だろう。

加えて、2000万円問題が出てからの政治家の発言の右往左往は、そもそも公的年金の制度設計の過程にも疑念を持たせるに十分なものになった。
今回のドタバタのように、行き当たりばったりで都合のいい数字は使うが、それ以外は「なかったこと」にしてしまっているのではないか。

このところの公文書管理やデータ改ざん問題他で抱いた不信もあり、国民の老後を守るどころか、意図的に破綻がわかっていてもそのまま突き進んでいるのではないか、との印象を与えるにも十分なものとなった。
「2000万円」という具体的な数字が語る未来はそれがリアルだからこそ、彼らの不実をあらわにしたとも言える。
この「炎上」は公的年金制度の設計・管理者たちが適当であるのかを国民に問う、崖っぷち、最後の機会かもしれない