龍の声

龍の声は、天の声

「伝習録③」

2014-05-16 07:14:50 | 日本

◎徐愛聞く
「先生は、博文を約礼の功夫とされました。よく考えてみても概略がつかめません。ご教示ください。」


先生答え
「礼の字は、とりもなおさず理の字だ。理が発現されて見えるものを、博文の文という。いまだ発現されていない文のはっきりと見えないものを理という。結局は、同じものだ。約礼とは、ただこの心が天理そのものであろうとすることだ。この心が天理そのものであろうとするには、必ず理が発現するところで工夫するのだ。もし事親(親につかえる)時に発現されれば、事親その場でこの天理を存することができるように学ぼうとするのだ。事君(君主につかえる)時に発現されれば、事君その場でこの天理を存することができるように学ぼうとするのだ。富貴貧賤に身を置いた時に発現されれば、富貴貧賤に身を置いたその場でこの天理を存することができるように学ぼうとするのだ。患難夷狄に身を置いた時に発現されれば、患難夷狄に身を置いたその場でこの天理を存することができるように学ぼうとするのだ。言動については、どこでも同じだ。理が発現されたところで、その都度天理を存することができるように学ぼうとするのだ。これが博文(ひろく文に学ぶこと)で、約礼(この心を天理そのままにしようとすること)の功夫なのだ。博文とは、とりもなおさず惟精のことだ。約礼とは、とりもなおさず惟一のことだ。」
 
 
◎徐愛聞く
「道心は、常に一身の主で、人心はいつもその命令を受けると朱子は言います。先生の、精一の読み方で推論すると、この言い方は、弊害があるかのようにみえます。」


先生答え
「そうだ。心は、ひとつだ。まだ人によって乱されていないのを、道心という。人の偽りによって乱されたのを人心という。もとは人心であっても正しさを取り戻したのが、とりもなおさず道心だ。もとは道心であっても正しさを失ったのが、とりもなおさず人心だ。はじめに二つの心があったわけではない。程子は、人心とは、とりもなおさず人欲で、道心はとりもなおさず天理だといった。この語では、弁別しているが意味としては実に当たっている。今、道心を主とし人心が命令を受けるというなら、二つの心だ。天理と人欲は並立しない。天理が主で、人欲がさらに従って命令を受けるなんてことがあるものか。」
 

◎陸澄聞く
「主一の功夫は、読書するときには、ひたすら読書し、接客するときには、ひたすら接客する。これで主一としていいでしょうか。」


先生答え
「色を好むときに、ひたすら色を好み、財を好むときには、ひたすら財を好む。これで主一となしえようか。これは、逐物(ものを追い求める)ことで、主一ではない。主一とは、心の天理を中心にしてものごとを行うということだ。」
 
 
◎聞く
立志について


先生答え
「ただ天理を存養することだけに集中する、それがとりもなおさす立志だ。これを忘れないようにできれば、久しいうちに心中が自然と練りあがったものになるだろう。それは、あたかも道家のいわゆる聖胎を宿すというようなものだ。この天理の思いが常にあり、次第に美・大・聖・神というふうになるのだが、やはりただこの一念から存養拡充していくだけだ。」
 

⇒先生 
友と接するには、へりくだろうと努めれば得をする。高ぶろうとすれば、損をする。
 
 
◎聞く
「後世の著述の多さは、多分やはり正学を乱してはいないでしょうか。」


先生答え
「人心は天理と一体化しているものだ。聖賢があらわした書は、その天理を書こうとするが、たとえれば人や物を生き生きと描きあげたようなものだ。しかし、それは形状の大略を表して、これによってもとの真の姿を想起させようとしたに過ぎない。その精神や意気込み、談笑の動作などは、もともと伝えられない。後世の著述は、さらに聖人の描いたものを、まねして書き写しみだりにバラバラにしたり増補したりして、技能を見せびらかしているのだ。ますます真の姿から遠ざかっていく。」
 
 
◎聞く
「安静にしていると、やはり心持ちはいいのですが、事に当たったとたん、もう違ってしまいます。どうしたらいいでしょうか。」


先生答え
「それは、ただ静かな心を守り育てることを知っているだけで、克己の功夫をしていないのだ。そんなままで事に対すれば、傾いて転んでしまおう。人は、必ずそれぞれの事の場で自分を磨いて、やっとしっかり立つことができ、そこでやっと程氏のいうように静態のときも定(さだか・ぐらつかない・安定)であり、動態のときも定になるのだ。」
 
 
◎聞く
上達の功夫を


先生答え
「後の儒者が人に教える際、精微なところに及ぶや、これを上達と言い、学ぶようなものではないものをしばらく下学と言う。これは、下学と上達を分けて二つとしているのだ。そもそも目で見る機会がありうるもの、耳で聞く機会がありうるもの、口で言う機会がありうるもの、心で思索する機会がありうるものは、すべて下学だ。目で見る機会がありえないもの、耳で聞く機会がありえないもの、口で言う機会がありえないもの、心で思索する機会がありえないものは、上達だ。たとえば、木の栽培や灌漑は、下学だ。日夜成長し伸び茂るというものこそ上達だ。その力に人は関わることはできない。だから、およそ功夫のできるもの、語ることができるものは、すべて下学だ。上達は、ただ下学の中にあるのだ。およそ聖人が説くもので精微を極めたものであっても、どれも下学だ。学ぶ者は、ただ下学の中で功夫して、自然上達の域に進むのだ。別に上達の功夫を求めるまでもないのだ。」
 
 
◎聞く
「惟精惟一とは、どのように功夫するのでしょうか」


先生答え
「惟一は惟精の方針で、惟精は惟一の功夫だ。惟精の他にまた惟一というものがあるわけではない。精の字は、米を部首としている。しばらく米でたとえてみよう。この米でまっ白そのものを手にしようとするのが、惟一の意味だ。しかし、臼でついたり、箕やふるいにかけたり、選んだりという惟精の功夫をしなければ、まっ白そのものではありえない。臼でついたり、箕やふるいにかけたり、選んだりするのは、惟精の功夫だが、しかし、やはりこの米をまっ白そのものにしようとするのにすぎない。博学・審問・愼思・明辨・篤行というのも、すべて惟精の功夫をして惟一であることを求めることと同じだ。他にたとえば、博文というのは、とりもなおさず約禮の功夫であり、格物致知というものは、とりもなおさず誠意の功夫であり、道問學は、とりもなおさず尊性の功夫であり、明善は、とりもなおさず誠身の功夫だ。二説があるのではない。」
 
 
⇒先生
知は、行の始め起点であり、行は知の成就だ。聖学では、ただひとつの功夫だ。知行を二つのこととしてはならない。


・聞く
「安らかに心を保ってるときは、未発の中としていいでしょうか。」


先生答え
「今の人の心を保つというのは、ただ気を安定にしているだけだ。安らかな時は、ただ気も安らかなだけだ。未発の中とするわけにはいかない。」


・聞く
「まだ中ではないとしても、やはり中を求める功夫ではないでしょうか。」


先生答え
「ただ人欲を去り天理を存養しようとして、やっと功夫といえるのだ。静態のときも、ひたすら人欲を去り天理を存養し、動態のときも、ひたすら人欲を去り天理を存養する。安らかであるかそうでないかは関係ない。もし安らかな方に依存していれば、だんだん静態を好んで動態を嫌う弊害が出てきて、その中に多くの欠点が潜伏するようになるだけだ。ついにその欠点が撤去できなくなり、事にあたっても依然と育成されるだろう。理にしたがうのを中心とすれば、いつでも安らかだろう。安らかであるのを中心にしたら、かならずしも理にしたがうことができるとはかぎらない。」