いとゆうの読書日記

本の感想を中心に、日々の雑感、その他をつづります。

大人の日本語   外山滋比古 著

2013年03月09日 | その他
ようやく春らしい陽気になってきました。ほっと一息と言いたいところですが、花粉や黄砂、大気汚染物質が懸念されるこの頃です。
さて今回は外山滋比古氏の「大人の日本語」です。これは随分以前に購入していたのですがしばらく積読状態でした。先日偶然目にした古い雑誌にこの本のことが出ていたので急に思い出して読み始めました。

「人は言葉で生きる。
ことばがなくては生きられない。
人間はことば次第である。」
冒頭のこの部分は最も印象的です。

堅苦しい教育的な本なのかなと思ったら案外読みやすく、一気に読み進めることができました。
いろいろな場面で人とお付き合いしていく上で、たいへん貴重な本だと思います。

最近は礼状を書かず、電話やメールで済ませる人が多くなりましたが、私はごく親しい人を除いて原則、品物が送られてきた場合は礼状を書くようにしています。同世代の友人ならお互い多少の日本語のおかしなところがあっても愛敬のひとつくらいに思って済ませてしまうところがありますが、世代の違う方々にはそうはいかないので少し気をつけて書いているつもりでした。手紙のマナーの再確認という意味ではとてもわかりやすい解説でした。

さて次は話し方です。これは書くよりもっと難しいです。何故ならやり直しがきかないからです。私はここ十年近くずっと東日本と西日本を行ったり来たりしています。東日本で育ったので関東に滞在しているときは関東の言葉を使います。唯、西日本で長く生活していたので家族の会話は半分くらい関西の言葉使いです。ですから西日本に行ったときは自然に関西のアクセントや言葉遣いになります。
外山先生の本は標準語が基準ですが、日本語のやわらかさや相手を思いやる気持ちは方言にも多く共通点があると思います。その日本語の微妙さが日本語の奥深さなのかもしれません。
駅や車内、百貨店の店内アナウンスは標準語ですが、よーく耳を澄ませて聞いていると時々「あれ? どこか変!」と思うことがあります。そんな日本語も時代とともに変化しておかしいと思わない人も増えていくのかもしれません。確かにこの本の中には外山先生がおかしいと思っていらっしゃることでも、私は気にしていなかったことがいくつか出てきました。
「お」や「ご」の使い方、これらも「お」は和語、「ご」は漢語の原則通りいかないものもあり、なかなか微妙です。

言われてみると「そうなんだ」と思ったのは、科学論文で使われる「であろう」の話です。
<「である」ではつよすぎるから、「であろう」とやわらげたまでのことで、けっしてぼかしたり、あいまいにしているわけではない、日本語には“はにかむ”心がはたらいている。
「である」を「であろう」にするのは、敬語の心理に通じるものがある。相手に対するいたわり、敬意がかすかにふくまれている。>
これはイギリス人の物理学者のレゲット氏が「であろう」を英訳できないことから問題視されたことのようです。若い時の私なら科学という実際に存在する現象について語ることに「であろう」ではおかしいように思ったかもしれませんが、「であろう」と「である」はそもそも同じことばと解釈すれば科学論文でもけっしておかしくはないと考えることができます。

後半は外山先生の美しい日本語に対する思いがひしひしを伝わってきます。
「ひとつひとつの章は独立したエッセイになっていてどこからでも、どれからでも読まれて差し支えない。」と外山先生のおっしゃると通りで、これからも手元に置いて時々参考にしたい本だと思いました。


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